文学の世界「鴨長明と方丈記~波乱の生涯を追う」            

                               講師 浅見 和彦(成蹊大学名誉教授)

 

前回は和歌所のメンバ-となり、歌合せ会で藤原定家に勝ったり、後鳥羽院の歌会で認められた歌人として活躍したことを話した。

「下鴨神社摂社河合神社神官への任官運動の不成功」

元々下鴨神社摂社河合神社神官の次男として生まれ、この職をかねてから熱望していた。歌人と

しての活躍に後鳥羽院は褒美として、この職を推薦し鴨長明は感激の涙を流した。しかし当時の下鴨神社禰宜の反対で実現しなかった。

その理由

・競争相手の、現在の禰宜の長男の官位の方が高い

・長明は神官としての学識が無い

後鳥羽院は別の神社を提案したが長明は拒否。この河合神社神官は特別なもので、ゆくゆくは下鴨神社神官への期待ももてる職であった。

 

「長明の下野」

これを契機として、落胆した長明は和歌所を辞職し行方不明になる。後、心境を著した歌が和歌所に送られてきた。

住みわびぬげにやみ山のまきの葉に 曇るといひし月を見るべき」

   →生きているのが辛くなった。私は深山でマキの葉越しに曇っている月を見ようとは思って

   いなかったのに。

人生に挫折して、遁世している気持ちを詠っている。

この歌は定家との歌合せに勝った時の歌

   「よもすがら独りみ山の真木(まき)の葉にくもるもすめるありあけの月」 新古今

   →一晩中、一人深山でマキの葉越しに曇ったり澄んだりする有明の月を眺めていることだなあ。

(有明の月→夜明けになお空に残る月)

この時の心境を以下のように書いている。

「生き辛い世を我慢して過ごしてきた。30歳になり心を悩ます事ばかりで、時々の不具合、(つまづ)

そんなことを考えていると、自分は不運な男なのだと悟った。そして家を出て出家した。元より妻子もなければ思い煩うこともない。官職もない。

 地位も収入もない。執着を留める事は何もない。そして大原に5年ほど過ごした。」

長明の具体的足取りは分かっていないが、東山→大原だろうと推定されている。

 

「後鳥羽院との歌のやり取り」

和歌所を辞職した長明に後鳥羽院は、和歌所への復帰を伝えるがそれに答えなかった。長明は琵琶に沿えて歌を送る。長明は琵琶に堪能であった。 

これを見る袖にも深き露しあれば払はぬ塵は なほもさながら」

   →院に戴いた琵琶を見るたびに、涙が出て来て袖を濡らします。だからお送りする琵琶の塵を

   払うことが出来ません。

院が返した歌

「山深く入りにし人をもかこちても中間(なかま)の月を形見とは見る」

   →遁世した人を残念に思っている、真ん中の月を思い出として見ているのだ

 

「最初の隠棲地東山にいる頃の歌」

「いづくより人は入り けんまくず原秋かぜ吹きし道よりぞこし」

  →何処から人はやって来たのだろうか。葛の原に秋風の吹いている道からやって来たのだ。

 

「大原にいる頃」

源家長(鎌倉初期の歌人、和歌所の事務局長、長明の元同僚)

この人が所用で大原に行った時、長明と邂逅(かいこう)する。家長日記にその時の様子が記されている。

 

「長明は痩せ衰えて別人のようであった。院から送られてきた琵琶の(ばち)を大切に持っていた。」

 

「コメント」

人生は失望と落胆の連続であるが、この人は折れ安すぎる様な気がする。歌人としては有名で

あり、院には大事にされている。歌だけではなく、琵琶の名手としても知られていた。

希望の河合神社が駄目でも、他の神社でもいいではないか。自分から、転落人生を選択している風。西行などの心境とは全く違うのでは。何を拗ねてるの。