1704013②「明治後期~子規の後継者・河東碧梧桐と高浜虚子」

 

前回は正岡子規を中心に、そもそも明治の俳句のスタ-トとして「写生」という感覚を正岡子規がかなり強く主張して、その結果何を以って俳句とするかの考えが、かなり変わったといことを話した。

 

早世した正岡子規の後を受け継いた碧梧桐と虚子が又、見事な位性格的に違うし、俳句に求めるものも違っていてその違うという事が、後の俳句史に大きく影響していく。子規の提唱した「写生」がどう発展し変化し、どう枝分かれして行くかを話す。

「正岡子規没後の情況」

(河東碧梧桐)

正岡子規の意思として新聞「日本」に「俳句は碧梧桐に任せる」という広告が出た。正岡子規は新聞「日本」を主戦場として、もっとも重要な俳句論や作品をここに発表していた。それを碧梧桐に任せるという事は、世間では次のリ-ダ-は碧梧桐だと認識された。しかし後世では虚子に比較して碧梧桐は余り有名ではないし分かりにくい。

(天皇の白髪にこそ夏の月)  宇多清子

(熟れきったトマト核兵器のボタン) 武井のぞみ

こういったタイプの意味深な俳句を作り始めたのが碧梧桐である。以上の二句は読者に丸投げするように、又考えさせたまま、作者は結論を言わない。碧梧桐はこういう傾向の作品を大いに詠んだ。

これを正岡子規の「写生」としたのである。

(河東碧梧桐と高浜虚子)

正岡子規・河東碧梧桐・高浜虚子は伊予松山出身の武士。正岡子規は二人の先輩であり、尊敬する先輩であった。そして二人はいつか小説を書いて世に出ようと目論んでいた。俳句などやろうとは思っていなかった。俳句は注力すべき文藝とは思っていなかった。しかし生前の子規が二人の俳句を突然誉め始める。

(赤い椿白い椿と落ちにけり)  碧梧桐

(盗んだる案山子の傘に雨急なり) 虚子

しかし、これに一番驚いたのは当人たち。この為に俳諧の世界で二人は有名になってしまう。子規は全く新しい俳句界を作ってくれると期待したのである。しかし個人的な感情問題もあって、徐々に二人はライバルとなってしまう。 

二人は当初、小説家を目指していた。碧梧桐は小説の様な複雑なスト-り-を俳句に入れようと

した。

虚子は、ある意味で俳句をあきらめ軽く見ていて、表現できることだけやればいいとの主張。小説や短歌とは違うのだ。やれることだけやればいい。こうして二人は、論争を続けて行く。

「二人の活躍の場」

 河東碧梧桐  新聞「日本」  俳句論や作品の紹介

 高浜虚子   雑誌「ホトトギス」 子規が松山で立ち上げたが失敗したのを、虚子が再興。

 しかし、それぞれの発表の場で二人は俳句論争を始める。

 ・「温泉俳句論争」というのがある。

  河東碧梧桐が温泉に関する俳句を百句発表、これを虚子が批判。俳句史では周知の事である。

  (温泉の宿に馬の子帰り蠅の声)  碧梧桐

    ●虚子の言い分→ 細部に拘り過ぎ・詰め込み過ぎ・余裕を持ったら。分からない。

                 読者の理解を得なければならない。実体験を押し付けると作品として

                 弱くなる。五七五の定型の中に何でも入れてしまうのは無理。

    ●碧梧桐の言い分→体験したことを写生している。俳諧と違い、これが斬新であり子規の主張

                  したことである。写生をしたものを何でも目いっぱい詠んでいく。そもそも

                  17文字で読むことには無理があることに挑戦すべき。         

「背景」

 当時、流行っていたのは田山花袋・島崎藤村のいわゆる自然主義と呼ばれた作家で、ありのまま

 の現実を描く。ヒ-ロ-も現れず、問題解決も無く、グレ-のまま過ぎて行くという風。この様な事を

 碧梧桐はやろうとしたのだ。未解決、落ちが無い俳句を作った。→新傾向俳句と称した。しかし、

 読んだ人には何のことだかわからない句が多い。

「その後の碧梧桐」

 碧梧桐は俳句だけではなく、書道でもこういうことをやっていて、中国古代の六朝時代の書体に

 共感して、これを俳句に導入した。この様な事は若手には斬新なこととして受けた。

「その後の虚子」

 俳句の限界に見切りをつけて、小説ばかり書いていた。主宰していた「ホトトギス」には、夏目漱石

 が「吾輩は猫である」「坊ちゃん」を連載して大好評。これに刺激されていくつも書くが不評。しかも、

 夏目漱石が去ると「ホトトギス」の経営も危機となる。仕方なく、俳句界に戻ることになる。正岡子規

 と同様に小説家への道は断たれて、残るものは俳句となる。

 そして、俳句はスカスカの余白があって、分かり易いのが俳句である、それでいいとした。複雑な

 ことは小説や詩に任せればいいとした。

 

「コメント」

俳句、特に明治以前の俳諧は枯れてどこか風流めいたイメ-ジ。宗匠と言う人とその弟子がいて、どこかにパトロンがという構図。明治と言う文明開化時代には、これも変えねばとの意欲は十分

理解できる。しかし、俳句には限界があると思う。その範囲の中で、楽しい人がやればいいのだ。

これが結局、桑原武夫の「第二文学論」に繋がっていくのだろう。