170427④「昭和初期~ホトトギス黄金期黄金期を築いた四S」

 

今日は昭和初期の「ホトトギス」について話す。

「ホトトギス」

ホトトギスは虚子が、経営者・主宰者・撰者を兼ねており、季節・テ-マを付けずに何を詠んでもいいという「雑詠欄」をセットした。これはレベルが高く、芭蕉の「猿蓑」、蕪村の連句相当。

現代では「オルガン」という俳句同人誌がある。これが良く似た俳句を作っている。参考として少し

紹介する。

・同人誌「オルガン」の作品

(六月に生まれて鈴を良く拾う)      生駒 大祐

  偶々だろうけれど何か必然性があり、シュ-ルな感じがする。しかし良く分からない。

(西日暮里から稲妻みえている健康)  田島 健一  代表作

(夕立や水族館の先の島)         宮本 佳世乃 

(日当たりは果物より堅いあり) 

だから何なんだという作品ばかり。こういう句を彼らは俳句と信じて詠んでいる。受け取る側は少し

面白いけれど、意味が全く分からない、 

この様に、まずは面白いというのを強く打ち出したのが、虚子の「ホトトギス」である。

・「ホトトギス」の作品例 昭和2年9月号より

(方丈の大(ひさし)より春の蝶)  高野 素十

竜安寺石庭の方丈の大きな庇から蝶が現れた。何かしら格調高い感じであるが俳句的にはおかしい。蝶は春の季語なので春の蝶はダメ。最初は格調高く出て、春の蝶でガクっとくる。今は名作とされているが意味が分かりにくいし、俳句的には破綻している句を虚子は絶賛した。

こういう俳句の作品として破綻している状況、分からなさ、意味も無い事を何故虚子は良しとしたのか、面白いとしたのか考えてみる。

「ホトトギスの大発展」

昭和4年に「ホトトギス」は400号記念となり、大会を開いたところ全国から2千人。子規の頃はせいぜい数十人。大正末期、小説に挫折した虚子が、しぶしぶ俳句に戻ってから20年。これは虚子の

経営者として、事業家としての才能である。勿論、俳人として、選者としての能力もあるが。俳句・俳壇=ホトトギスと言われる時代であるが、その作品はとみると「何だこりゃ」というのばかりであるが。

・ホトトギスの四S

当時ホトトギスの四Sと呼ばれた人たちが鎬を削っていた。

高野 素十    帝大出の医学博士 帝大俳句部の出身、医学でも顕著な実績

水原秋桜子  帝大出の医学博士 短歌より転じ、俳句に新風。後、ホトトギスの客観写生に

          飽き足らず新興俳句運動に向かう。

阿波野(あわの)(せい)()  難聴の為進学を断念、後虚子と知り合い同人となり、ホトトギス撰者となる。奈良県出身

山口 誓子(せいし)   帝大法学部出 住友に就職、上司が歌人の川田 順。後秋桜子と共に「ホトトギス」を

                       離反する。

名前の頭文字を取って四Sと呼ばれ、ホトトギスの頂上を争った。当時地方のホトトギス同人が、雑詠欄に入選すると赤飯で祝ったという位の激戦であったという。というのは虚子の選は厳しかった。

要するに彼独特のメガネにかなう事は大変であったのだ。しかし、今、この四Sの作品を見るとまるで意味が分からないのが並んでいる。今でこそ、名作とされているが、当時の感覚からすると

「えっ、これが俳句か」と言われるくらい、型破りであった。例を示す。

(蟻地獄皆生きている伽藍かな)  阿波野青畝 

蟻地獄が寺の伽藍の下にあって、どれもこれも生き生きとしている。伽藍では殺生を禁じ、現世・来世を祈っているのに。蟻地獄の連作があり、どれも不気味。ブラックユ-モアに近い。この句はどれも

ぶつ切れになっていて、(生きている)は終止形とも、連体修飾とも取れる。(伽藍かな)と俳句っぽく終わっているけど、これらはタブ-中のタブ-で、句会では間違いなく直されるレベル。しかし虚子は一席とした。

瀧の上に水現れて落ちにけり)  後藤 夜半 

どんな滝なのか、滝がどうなっているのか、全く分からない。「ホトトギス」撰者となる。彼の代表作と

される。

(秋晴れのどこかに杖を忘れけり) 松本 たかし

これも分からない、どこかとぼけていて、(けり)で終わって俳句っぽく終わっているだけ。虚子はこれぞ俳句と言って上席にした。

(漂える手袋のある運河かな)  高野 素十

薄気味悪い風景。

「虚子の主宰者・選者としての考え方」

四Sを始めとして、「ホトトギス」の作品は今までにないものばかり。察するに、虚子は骨董品の目利きの感覚ではなかったのか。普通の人からすると汚らしい、ガラクタばかりのものも、目利きが見ると、普通の人が分からない価値を見出すのであろう。骨董品に思いもしなかったような価値を見つけて「すごい」と言うと、あの目利きが言っているのだから「そうなんだろう」のバタ-ン。作者が思いも

しなかった解釈を見出して、名作となっていくのだ。

要するに「ホトトギス」以外だったら、没になるか上席にはとても入らないばかり。

俳句のバタ-ンを踏まえて、作者も読者も納得する俳句らしさをわざと無視したのである。野心的な、前例のない作品を虚子はこれぞ俳句、これぞ写生とした。要するに「撰者(虚子)が作品を見出すのだとまで言っている。自分の俳句論に絶大な自信を持っていた。

「ホトトギス以外の俳人」

ホトトギスは日本最大の俳句グル-プであったが、意味不明な分からない句を最優秀作とする、

歴史上変わった存在であった。後世の私達からすると、ホトトギス=四S=虚子とみるが、当時は

いわゆる俳諧の宗匠たちがいて、ホトトギスに無関係な俳人は沢山いた。そういう人たちから、

ホトトギスは訳の分からない集団と言われていた。当時、有名な俳諧宗匠はこう言っている。「俳句は

芸術である。しかし現在の俳壇に芸術家が何人いるか。得意そうに色々と言う人は居るが。そして

俳句はそういう人たちのものではない。」→これは「ホトトギス」を念頭に置いている。

四Sの一人山口誓子は京都帝大を出のエリート。「芸術しての俳句」等の論をしきりに発表していた。

それを読んだ宗匠たちは、「何を意味不明なキザな事を言っているのだ。訳の分からん句ばかり

作って」と。

・非難の対象となった例

(七月の青峰(あおね)間近かに溶鉱炉)   山口 誓子

青峰という言葉は、万葉集にも使われた古い言葉。そして溶鉱炉は八幡製鉄所の事を言っている。

古代と近代産業を持ってきている。虚子は実にいい作品と言っているので、傑作なのかもしれないが

何のことだがさっぱり。

(啄木鳥や落ち葉を急ぐ槇の木々)  水原 秋桜子

この句は季重なりで、俳句のル-ル違反。啄木鳥→秋、落葉→冬。こんな句は普通の俳諧では

有り得ない。虚子は、ルールよりも、強い・迫力のある前例のない作品を良しとした。

弱い、バタ-ン化された、所謂俳句らしいのは没にした。凄い時代であったのだ。

「ホトトギスに激震」

虚子主導のホトトギスに激震が起きる。昭和6年に四Sの一人水原秋桜子が虚子を批判して脱会

する。短歌より俳句に転じ、短歌で学んだ抒情的な句風でホトトギスに新風を吹き込んだが、

虚子の「客観写生」に飽き足らなくなり脱会。「新俳句運動」のきっかけとなる。

 

「コメント」

所詮は人の集団である。最初は刺激のある興味深いホトトギスであったが、徐々に訳の分から

ない句に嫌気がさす人も出てくる。何事も時間とともにマンネリ化し、出るに出られないぬるま湯と

なる、もう一つは、虚子の独善性?。俳句は全く門外漢であるが、講座で示された子規→ホトトギス

の作品には無理があるような気がする。しかし芸術の価値観とは極めて主観的なもので、指導的

立場の人がそれを決める。講師は「ホトトギス」にかなり批判的。