170525⑧「野暮であり続けた俳人たち 敗戦期

「講師 概説」

社会性俳句や前衛俳句の担い手は、強烈かつ濃厚な句を詠むとともに名うてのやっかいな俳人たちだった。彼らは野暮であること、無粋であり、小器用さよりゴツゴツした手触りをよしとした。しかし

実人生や人柄も作品に劣らず奇々怪々だった彼らの生きざまは、社会の安定と共に次第に疎まれるようになる。

「社会性俳句・前衛俳句の人々」

1950年代(昭和25年~30年代)。俳句雑誌「鶴」ら所属した俳人たちの生活、考え方について

話す。これらの人々は酒と奇行で知られる。当時の文学者たちは、覚せい剤「ヒロポン」は常識。

太宰治・織田作之助・坂口安吾・・無頼派と呼ばれ、それが文学者らしいとした。「鶴」の同人も同じ。

「鶴」

「ホトトギス」を脱退した水原秋桜子の「馬酔木」の流れをくんで、石田波郷が主宰。石塚友二、志摩芳次郎・・・。「俳句の韻文精神の徹底」「剛直なる生活表現」「社会性の表現」をテ-ゼとした。

 (父老いて葬儀の花をなぎ倒す) 志摩 芳次郎 

父が葬儀で泥酔して醜態を見せた。息子も厄介な酒飲み。酔うと誰かれなく、俳句談義を仕掛ける。

 (怒らぬから青野で絞める友の首) 志摩 芳次郎

  意味不明。

 (沖目指す花の日陰で脱糞す)  安井 康治 

これらの人々の酒癖の悪さや、議論好きがまだ許される時代であった。いまと違って道理に合わないことも多く「酒の上」と許される時代であった。しかし1980年代になると、俳句界も小市民的な集まりとなり、作品も美しく身だしなみが良くなり、スマ-トで上品なものになっていく。それまではゴツゴツとした男たちが酒を飲みながら、談論風発しながら社会性を持たなければならないとした。「俳句は

生活の中で四季を愛し生きていることを詠む。どんな状況でも場所でも、17音は出て来るであろう」  前衛俳句・社会性俳句と様変わりの主張。

その頃の作品を紹介する。

  (鮟鱇鍋酔の壮語を楯として)      小林 康治

    石田 波郷に師事。休刊していた「鶴」を復刊。韻文を尊重し、骨格の確かな句を読んだ。

(あえかなるバラ選りおれば春の(らい))  石田 波郷

(女()と帯巻き出ずる百日紅)         石田 波郷

(鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる)    加藤 楸邨(しゅうそん)

 

「「鶴」の復刊」」

小林 康治が復刊。第一号に「四季貧窮 48句」で注目される。

(貧しさも喜びに似て落ち葉踏む)    小林 康治

復刊号に石田 波郷が、小林 康治に寄せた文章。「俳句を詠い続け生活と戦いながら遂に

「鶴」復刊を成し遂げた。彼の貧窮は日常茶飯事であった。しかし貧も風雅というのではなくもっと

胸を張り目を高く上げて貧を詠った。その上、彼の貧は彼一人の貧ではなかった。普通の庶民の

貧であった。」この辺りは現代の俳人たちとは違っている。俳人の甘えと開き直りと俳人たちの

連帯感が見える。豊かになった現代俳句界の人達には到底想像できない事であろう。

 

「コメント」

戦後のある時期までは日本国中、無頼派が横行したのだ。我々の時代まで、文学界にはその名残があったように思う。何か「壮士」気取りと言うか。短歌界もそうだったのかな。「鶴」以降の俳句には好きな作品がある。