210819⑧「偉大なコキュたち」

愛を巡るドストエフスキ-独特の箴言の数々を話す。
まず冒頭からいきなり、ドストエフスキ-初期の短編小説を紹介する。

「他人の妻とベッドの下」というボードビル風の小説である。冬のぺテルブルグ、あるアパ-トの前に佇む一人の青年。

そこに、一人の恰幅の良い紳士が姿を現し、会話が始まる。寝取られ亭主である紳士と寝取った

青年が、アパ-トの三階まで来ると、ドアが開き第三の男が姿を現す。部屋の中からは、なまめかしい女の声、ドアの前に立ち尽くす夫の姿を認めた妻は、事もなげに「貴方でしたの」と言い放ち、平然と馬車に乗り込む。

この先、この小説は更なる展開するが、楽しみにして貰いたい。

この小説は要するに、男女間の裏切りがまさに、こともなげに実現し展開していくが、「貧しき人々」であれほど、純粋な中年男と若い女性の純愛を描いた作者に、どうしてこんな小説が書けたのかと疑う読者もいるであろう。

それほどにえげつない内容である。しかし、これがドストエフスキ-の隠された牙であった。彼はその牙を何年にも渡って、隠し続ける事になる。いわばコキユのテ-マを、驚くべき高みへと引き上げて行った作品は、晩年の「白痴」であった。

所でコキュとは何であろうか
百科事典によれば、妻を寝取られた夫。一般に、愚鈍なお人よしで、愛人と密通したことを知らず、その愛人と親しい
関係にある人物としてイメ-ジされる事が多い。フランス語でカッコウの語源と同じである。カッコウのメスは卵を他の鳥の巣に産みつけることから不実の象徴である。

ドストエフスキ-文学を読み解く一つの方法として独特の心理学を準備しておくことも大事かも知れない。

 

「フロイト、ルネ・ジラ-ルのドストエフスキ-論」  欲望の現象学

フロイトの書いた「ドストエフスキ-と父親殺し」が先駆的研究として知られているが、そのフロイトの理論を発展させたフランスの現象学者のルネ・ジラ-ルの「ドストエフスキ-論」も一読に値する。

そこでは、彼のいわゆる欲望の現象学が、圧倒的な威力を発揮する。

ジラ-ルによれば、欲望の条件は一線を画する。欲望はいわば一方的な願望の形を取っている。例えばビ-ル飲みたい、トイレに行きたい・・・・

それに対して、欲望とは自分自身の内部から、自発的に引き出されるではなく、他人からそれを借用してくる。単純に他者のもっているものを模倣して欲しがるという特質がある。ごく単純化すれば、隣の芝生は青く見えるという構造に似ている。それを一つの構造として見ると、そこには欲望する主体と、その欲望を引き出してくれる他者と、そして欲望の対象という三者の関係が存在していることに

気付く。

ジラ-ルはこれを三角的欲望と表現する。恋愛関係において生ずる闘争とは、しばしば三角形的欲望の構造を持っている。

他方、今日の講義の冒頭に紹介した、コキユ小説を動かしている原動力も、実は他人の欲望を模倣するという欲望の構造そのものの、端的な反映という事が出来る。

白痴における欲望」

さてドストエフスキ-が4年のヨーロッパ滞在中に完成した、「白痴」は、世界文学のなかでも指折りの恋愛小説として知られる。

ここではイエスキリストやドンキホ-テに模された、完全に美しいムーシキン公爵を中心に、三角関係或いは四角関係の複雑な恋愛模様があるが、作品全体を通して愛を巡る言葉を見出すことが出来る。

引用する。

「完全というのは、愛し得るものではありません。完全というのは、単に完全なものとして、眺められるものだけのものです。抽象的に人類を愛するということは、殆ど例外なく自分だけを愛するという事になります。」

しかし、「白痴」は同時に、先ほど言ったが、深く道化芝居の要素、もっと言うならコキユ劇的な趣を湛えた作品である。

事実、道化的脇役の多彩さにおいて、これに抜きんでる小説はない。

主人公ムーシキン公爵は5年間のスイスの入院治療を終え、ペテルブルグに戻ってくる。その列車の中で、巨万の富を得た若い商人ロゴ-ジンと出会う。ロゴ-ジンは、ペテルブルグで名の知られたナターシャ・フィリッポヴナという素性怪しき女性の虜になる。ペテルブルグに着いたム-シキン公爵は、親戚の家に身を寄せるが、そこの書斎で一枚の写真を目にする。列車の中で話題になったナスタ-シャの写真である。
彼女はその家の秘書ガーニヤと結婚の話が進んでいる。ムーシキン公爵が彼女家を訪ねると、そこには大金を手にしたロゴ-ジンが現れる。
こうしてナスタ-シャを巡って、ライバル関係、三角関係が生じる。しかし、公爵にも莫大な遺産があることが明らかになる。物語は4部から成っており、今説明した部分はその1部に当たる・さて人間の欲望というものの特質が、他者の模倣であるという前提に立って、ドストエフスキ-の作品を分析したジラ-ル。それを引用すれば「全ての恋愛関係は三角形的という事が出来る」

事実、ドストエフスキ-の作品の多くに、他者の欲望を模倣するというモメントが描かれている。

「分身」のモチーフなどはその典型と言って良い。

(ム-シキン公爵、ロゴ-ジン、ナスタ-シャの三角関係における三角関係)  独占と共有

欲望というものは当然のことながら、独占か共有かという分岐点に常に立たされている。「白痴」の登場人物達は、まさに分岐点に立って、七転八倒の苦しみを経る男女の物語である。

しかしその中心に位置する登場人物ムーシキン公爵はそもそも、イエスキリストに擬して造形された完全に美しい人物であるから、独占の欲望が彼を支配することはない。

突如転がり込んだ遺産に対しても、勿論執着を見せない。自分に好意を寄せる将軍の娘アグラ-ヤに対しても、ナスタ-シャに対しても、独占の意志を持たない。ムーシキン公爵にとっては、全てが一対一の対話的関係があるのみである。

つまり、公爵をムーシキン巡る愛には、最初から三角関係が成り立たない。そしていうなれば、そうした曖昧な欲望の有り様が、いや欲望そのものの欠如が、遂に周囲の人々を追い込み、破滅へと追いやっていく。

総じて欲望の欠如は、ムーシキン公爵に於いて意味していたのは、基本的には最重要のレベルにおける共有の理想であった。
共有の理想は、当然博愛の理想に通じる。

さて、「白痴」におけるコキユ的要素を探り出そうとして気付くのは、ムーシキン公爵、ロゴ-ジン、ナスタ-シャの三角関係において、二人の男性がいずれも奪う立場と奪われる立場の双方を演じている事実である。両者ともコキユなのである。この三者の間に性は介在していないので、寐取るという言葉を使用することは不適切である。

但しロゴ-ジンの名前には、実はコキユの意味が隠されている。コキユは仏語で、カッコウの意味と言ったが、ロシア語では角を持つものラガノテスという。ロゴ-ジンの名前に注目して欲しい。ロゴ=角である。

 

この三角関係の中で、ロゴ-ジンのナスタ-シャへのストーカ-的行動が発生する。ストーカ-に怯えたナスタ-シャは、ロゴ-ジンに身をゆだねるが、最終的にはロゴ-ジンに殺害される。

この三角関係には勝者はなく、三者三様に悲劇的結末を迎える。ナスタ-シャにとっては死、ロゴ-ジンはシベリア流刑、ム-シキン公爵はてんかんの病気の再発。

 

では「白痴」において性の問題は、一切回避されているのだろうか。彼らは性の呪わしさ、忌避すべきものとして行動しているのだろうか。実は、性を一切排除するかに見えるこの「白痴」こそは、性に関するドストエフスキ-の最も根源的な思索を展開した小説である。

ここで問題にするのは、異端派との関係である。ナスタ-シャは鞭見派、ロゴ-ジンは去勢派がイメージとして関連付けられている。その事実だけ述べて次の作品に移る。

 

「まさにコキユ小説」 

さて次に取り上げる「永遠の夫」はより明らかな形で共有の理想との関連で、コキユのテーマを掘り下げた作品である。

この小説はいわば夢想家にして、リアリストであるドストエフスキ-の、真骨頂を示す傑作であるだけに、共有の説明にそれなりの十分な説得力が求められる。物語は驚くほど、シリアスな雰囲気である。ある地方都市に住む善良な役人、トルソスキ-の珍しい秘密が露呈する。
長年自分が寝取られ男であったこと、愛する娘リーザが友人ヴァリヤ-二ノフの子供である事が明らかになる。
妻の突然の死をきっかけに妻の男を探す。
トルソスキ-はペテルブルグに向かう。そうして、男ヴァリヤ-ニノフを見付ける。彼は相手の女の死と、かって女から
妊娠の兆候を告げられ、逃げ出してペテルブルグに来たことを思い出す。

その後トルソスキ-は再婚を決意し、若い女の家を訪問する。それが彼の一方的な思い込みという事が分かり、愕然とする。失意のトルソスキ-は、ヴェリチャ-ニノフに向けてもすべてを話し、最後にナイフで襲い掛かるが疵を負わせただけ。この物語の荒筋を読めば、これがもはや若い時代に作家を夢見た、夢想家の物語では根本的に性質を異にしていることが明らかになる。夢想家ならざる「永遠の夫」はもはや屈辱や自己犠牲に甘んずることなく、寝取った男に対して殺意を抱くまでに成長していた。

しかし、作者はどこまでも悲観的である。一旦コキユの悲哀を味わわされた男は、二度とそこから逃れられないと考えているかのように、。これは単に滑稽の味を出す為の作為なのだろうか。
少なくともトルソスキ-にとって、コキユであることは、彼に降りかかった運命であると同時に、彼自身の運命の選択で
ある。

印象深いのは再婚を決意したトルソスキ-が、ヴェリチャ-ニノフを伴って、婚約者の家に向かう途中、宝石屋に立ち寄り、未来の妻にプレゼンとする宝石を買うのである。恐ろしいことにヴェリチャ-ニノフは、抗し難い力に押され、再び―誘惑者の役割を演じている自分に気付く。案の定、トルコフスキ-の婚約者の気持ちは、既にヴェリチャ-ニノフに向いていた。

「コキユ=マゾヒストの分析」

ジラ-ルの分析を読んでみる。

「マゾヒストは、彼を侮辱した人間に対する輝かしい勝利によってしか、自己評価を生み出すことは出来ない。所が、彼の目から見ると、彼を侮辱した人物は大きく素晴らしく見えるので、自分にこの勝利を齎してくれるのはこの人物を置いて、他には無いのでないかと思われてくる。マゾヒズムには、いわば禁止作用があって、被虐者は加虐者の姿しか目に入らなくなる。マゾヒストはいつでも取りつかれたように、自分から自分の不幸を招く」ラストシ-ンは圧巻である。

そりから2年後、ヴェリチャ-ニノフは黒海の街オデッサに向かう途中、ある駅のプラットホ-ムで若い妻と、若い将校に伴われたトリソフスキ-を目撃する。ここでも、トルソフスキ-が強いられているのは共有なのである。
悪霊におけるコキユ」

ドストエフスキ-の作品中、最も偉大な最も美しい永遠の夫は「悪霊」に登場するイワン・シャ-トフで

ある。

神をはらめる民という愛国的理念を抱いて、革命結社から脱退を宣言した彼は、愛する妻を偉大な師スタブロ-ギンに奪われた過去を持つ。哀れなコキユである。しかしシャートフは、そんな事実も

意に介さず、スタブロ-ギンの子を身籠った妻マリ-の出産のために甲斐甲斐しく立ち回る。既に

読んだ人もあると思うが、簡単に「悪霊」について説明する。

この小説は1869年にモスクワにある農業大学の構内で起こった、5人組からなる革命結社の内ゲバ殺人に、取材したものである。
犠牲になったのはイワンイワーノフ。ドストエフスキ-の
「悪霊」では、イワン・シャ-トフ。
シャートフはいわば熱狂的なナリョナリストであり、メシア主義を奉じている。ロシア正教には世界を破滅から救うミッションがあるという考え方である。その彼にはマリーという恋人がおり、僅かな期間結婚生活を送ったが、彼女を奪ったのがスタブロ-ギン。そして物語の終わり近く、身重の体でヨーロッパから帰ってきた。多くの研究者が指摘していることだが、
ドストエフスキ-はこのシャートフに描写に自らのイメージを加えている。思うに、1870年代に入り、ニヒリズムの運動が不吉な盛り上がりを見せる中、ドストエフスキ-はこのシャートフに託して、真の自己犠牲に貫かれた、夢想家の復権を
図ろうとしたのである。真に自己犠牲的な精神によって、共有は一つの自立した創造的精神に転化していくのである。

しかしドストエフスキ-は「悪霊」以降、確実に魂の不安の時を迎えつつあった。彼の体を蝕んでいた肺気腫の悪化がある。彼は身体的な衰えを確実に感じていた。

未成年におけるコキユ」 マカロ-ビッチとベルシ-ロフ

ドストエフスキ-の小説の中で、成熟という名に相応しい愛の物語について語ったのが「未成年」

ある。

この小説の愛にはリアルタイムの時間間隔が隠れている。観念で書かれた愛ではなく、内省と実践から生まれたという意味で、他のどの長編とも一線を画している。

この小説において寝取られる男は、農奴マカロ-ヴッチ。そして彼の妻を寝取るのが地主貴族のベルシ-ロフである。

しかし精神的に成熟しているマカロ-ヴィチはまさに、「悪霊」で登場したシャートフに劣らない精神で、その克服を図ったのである。従って「未成年」という小説には、コキユの彩も滑稽さもない。むしろ、マカロ-ヴィチから彼の妻を奪い取ったベルシ-ロフも、破天荒な散財を繰り返しながら、成熟への道を歩いて行った。
彼はいかに逸脱を繰り返しても、それに対して笑いが浴びせられることは無い。成熟こそが、自立した価値であると言わんばかりである。このベルシ-ロフの精神的行動の中で、最も印象に残るのは、ヨーロッパ遍歴中の彼が、突如、農奴出の妻ソフィアへの愛に目覚める場面である。妻のソフィアに体現されるのは、農奴制の名残そのものであるが、その背後からはノスタルジックな思いに満たされた、永遠の女性いや母性とも言うべき姿が浮かび上がる。
ベルシ-ロフはしみじみと語りかけてくる。

「ロシアの女というのは早く老ける。その美しさなんて束の間の幻だ。そしてそれは、実際人種的な

特徴のせいとばかりでもないのだ。一つには惜しみなく愛を与えることが出来るからだ。
ロシアの女は、いざ愛したとなると何もかも一度に与えてしまう。現在も未来も全部だ。出し惜しみをするという事を知らない。そしてその美しさは愛する者の中に流れ込んでしまう。しかし男はその永遠の女性像、母性像に憧れ心惹かれるのだ。」。

ベルシ-コフも例外ではない。彼はそれが挫折に終わる事を、予感しながら、放浪を続けざるを得ない。命尽きるまで。

ベルシ-ロフを待ち受けているのは、箏のよると、「カラマ-ゾフの兄弟」の父、フョードル・カラマ-ゾフの八方破れの

晩年か。フョードル・カラマ-ゾフは言う。「何しろ、俺は汚らわしいまで、生きたい。」

カラマ-ゾフの兄弟における愛」

ドストエフスキ-文学の総決算とも言うべき「カラマ-ゾフの兄弟」は、まさに愛を巡る人間の宝庫である。しかもその愛は男女間の愛から、親子の愛、神と人間の愛、更には動物への愛にまで広がっており、晩年の作家の精神的な振幅のすごさに驚かされる。

興味深いのは、この小説では全ての登場人物が、自分を解放し、信念に基づき伸び伸びと役を、演じ切っていることである。少なくとも愛内ないし恋愛において、一人として迷うものがいないのは驚きなのである。

ドストエフスキ-の登場人物を深く呪縛していた共有の理想は、遂に息の根を止められた感さえある。逆に、その意味で、この小説はドストエフスキ-らしからぬ小説と言えるかもしれない。

ここには三角形愛の形は希薄であり、一種の対話的愛の形へと変化している。ここでは先程紹介したジラ-ルの言う欲望の元という概念さえ霞んでしまうほどである。

即ちある意味で極度に単純化された人間ドラマが展開するのである。
誰一人共有の理想を語ることは無い。彼らは、ドストエフスキ-が私の主人公と呼んだ、アレクセイに向かって、思いのまま言葉をぶっつけて[宮野1] 
「カラマ-ゾフの兄弟」の長男ドミトリ-は、酒に酔った勢いでこういう「惚れこむというのは、愛するというのとは違う。憎みながらでも、惚れこむことは出来る。惚れるとは魂を抜かれる状態を言う。又魂を抜かれるとは、悪魔がとりつく憑依された状態をいう。愛は盲目であり、憎しみの間に分け目はなく、惚れこんだら最後、運を天に任せるしかない。」

魂を抜かれることほど、恐ろしいことは無いが、遂にはそれくらいの恋ができれば、どうあろうと生きている価値があるというものである。スイスの哲学者ジョルジュシモンが言っている。「惚れるのは状態であり、愛するのは行為である。状態は混沌を受け入れるが、行動は混沌を受け入れない。そしてこの混沌こそが、「カラマ-ゾフの兄弟」と言うことが出来る。

ここに登場する彼ら彼女ら達は、純粋に自分の存在を演じ切ろうとしている。
愛する婚約者をグル-シェンカに奪われたカテリ-ナは、ヒステリ-の発作で倒れる場面で、彼女に密かに恋するイワンは、冷徹にこういう。

「ヒステリ-で死んだというのは聞いたことは無いが、ヒステリ-ならヒステリ-で構わない。神を愛おしんで、神を届けたのはヒステリ-だ。」

「カラマ-ゾフの兄弟」に登場する全員が、ヒステリ-の発作に苦しんでいると言っても過言ではない。

しかしヒステリ-症の彼女たちが、当時に素晴らしい母性愛で読者を圧倒する。男たちは常に女たちの怒りを恐れているが、女たちの怒りを恐れる理由は多くの場合、怒りの理由が分からないからで

ある。
理由が分からないだけ、女の怒りは、神のそれに近くなる。

では「カラマ-ゾフの兄弟」の主でアレクセイの父・フョードルは愛についてどう語っているだろうか。

夢想家にして、リアリストのドストエフスキ-がいわば、生の極意について触れた稀な例を引いて

みよう。

「お前達。しぬまでお前達には分からんだろうが、俺の人生に醜女なんて一人もいなかった。俺の信念で言うと、どんな女にだって、他の女には見付けられない、非常に面白いものが見つけられる。

但し、それを見付ける能力が必要だ。女ってことだけで、もう全体の半分をカバ-している。相手が

どんな行き遅れだって、時にはそういうことが、見つかって驚くことがある。」

ではアレクセイの精神的父であるゾシマ高僧し、愛についてどう語っていたか。

「人を愛する者は、人の喜びようも愛する。」これは真の意味での共有の理想形である。

これは、ドストエフスキ-の愛を巡る究極の一言と云って良い。

貴方方は、このゾシマの言葉を実践して生きて行けるだろうか。これは、講師の座右の銘である。

 

次回は「傲慢という病」として、パンデミック時代におけるドストエフスキ-文学について考える。

 

「コメント」

今回も録音を起こし、纏めるのに目が霞むほど。でも段々面白くなってきた。もう少し、量が減ればなあ。改めてロシアというのは、単なるのろい大男の国ではないんだと痛感。