210909⑪「美は不吉な道化師たちのカーニバル」

「ロシアにおける高等遊民、余計者」

ドストエフスキーの作品に、登場する様々な道化の姿を紹介し、その魅力について考える。

ドストエフスキー文学にその魅力の源泉となっている力とは、何なのか。主人公たちの魅力を無視することは出来ない。

しかしそれに劣らず、ドストエフスキー文学の面白さを決定づけ、その文学に活力を与えているのは脇役たちである。

その脇役たちの中でも、破天荒と呼ばれる人物たちが、道化的な役割を果たしている。

少し歴史的に振り返ってみる。
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世紀ニコライ二世の治世に、ロシアの作家が好んで描いた一群の人物像がある。ロシアの将来を悲観し、自己実現の可能性を見出すことが出来ず、鬱々と生きている高等遊民達の存在である。ロシア文学者の中では、余計者と呼ばれた彼らは、単に無為な生活を営むだけでなく、時として無意味な決斗にかまけ、周りの人々幸福を台無しにしてきた。

高等遊民の存在は、当然文学の中だけの話しではなく、現実に多数存在していた。彼らの少なからぬ部分は、ヨーロッパにと放浪した。そうした人々を生み出す共通の土壌として、1825年のデカブリスト事件による影響が指摘される。

社会変革への理想に燃えながら、専制権力によってその芽を摘まれ、行き場を失った貴族が多数存在していた。

彼らは当然のことながら、文学にその存在を見ることになる。

余計者の先駆的人物として知られるのは、グリボエ-ドフの書いた「知恵の悲しみ」の主人公チャッキ-、プーシキンのエフゲニイ・オネーキン、デウモノテフの「現代の家」に登場するエチョ-リン、この

三人である。三人を詳述出来ないので、その典型としてチャイコフスキーのオペラでも知られる

エフゲニイ・オネーギン」の例を挙げておく。

(エフゲニイ・オネーギン)  高等遊民、余計者の典型

オネ-ギンは、自分に恋する田舎娘タチアナを、冷たくあしらった挙句、舞踏会でその妹オリガにちょっかいを出して決闘騒ぎとなり、彼女の恋人を殺してしまう。その後長い放浪を経てペテルブルグに戻った彼は、かっての田舎娘が今や美しい人妻として、社交界に君臨する姿を見て、新たな恋心を抱く。他方、公爵夫人タチアナもオネーギンの出現に動揺するが、その誘惑を振り切って別れる。友人レンスキ-の決闘死にしろ、最後のタチアナの毅然とした態度にしろ、そこには驕り、高ぶり、高ぶった余計者の驕りに対するプーシキンの無言の怒りを感じる。

 

さてドストエフスキ-が、流刑地から帰って間もなく、1860年代ロシアの社会状況は一変している。
アレクサンドル二世が導入した農奴解放は、大きな歪を生み、ニヒリストと呼ばれる革命家を生み出していく。

そしてそれと同時に、余計者のモチーフは同時代の文学の中心から外れていく。

そうした中で、ドストエフスキーの作品世界の中で、新たに登場し始めたのが、余計者と言うよりむしろ無用者と言うにふさわしい一群の人物達である。

ドストエフスキーがモデルとしたのは、プーシキンやレールモントフのロマン主義的な主人公ではなくて、むしろゴーゴリ-のリアリズム文学が影響した小さい人間の系譜である。むしろ、彼らは確実に

無用者の名にふさわしい、れっきとした道化的人物へと変貌した。

(ステパンチコヴォ村の住人}における道化の有様)

ドストエフスキーにおいて、その先陣を切った人物こそが「ステパンチコヴォ村とその住人」に登場する道化者で食客のフォマ-・フォミッチである。ドストエフスキーはこう書いている。

引用。道化の描写

全く何のとりえもない極めて小心な社会の死産児。誰にも必要とされず、全くの役立たずで醜悪極まりなく、そのくせ自尊心だけは強く、おまけにその自尊心を、多少でも裏付けてくれる才覚など何一つ持ってはいない男である。

ロシアの片田舎ステパンチコヴォ村舞台に、勝手の限りを尽くし、ミニ独裁者を演じるフォマ-だが、その彼と対照的にフォマ-の主人であるエゴ-ル・ロスタ-ニェフの描写は理想的に描かれている。ロシアの研究者はこのロスタ-ニェフについて、ドストエフスキーの世界に登場する、善良で無私無欲な登場人物の全ての中で、最も善良な人物としている。但し、そこに病的な物を付け加えている。いずれにせよ、ここに病的にまで、慈しみ溢れるまでに主人と、病的なまでに身勝手で、歯に衣着せぬ道化芝居にうって付けのカップルを登場させた。

引用。毎日がカ-ニバル→奪冠

ステパンチコヴォ村の生活の全ては、かっては居候の道化で、今ではロスタ-ニェフ大佐の邸の、無制限の独裁者となったファマ-・オピ-スキン中心に、つまりはカーニバルの王を中心に廻っている。

従って、ステパンチコヴォ村の生活は、1から10までくっきりと鮮やかに、カーニバル的色彩を帯びている。それは正常な軌道から、逸脱した生活であり、殆どあべこべの世界である。

ここで言うカーニバルの王とは、カーニバルの最中にのみ許される王の一時的な地位である。

カーニバルでは全ての価値が転倒し、王はその冠を奪われる。奪冠という。

ドストエフスキーの小説ではしばしばこの奪冠という現象が発生する。まさにあべこべの世界である。

ドストエフスキーはこの「ステパンチコヴォ村の住人」で、後の五大小説のエンジンともなる部分とも

いう、エッセンスを取り出したのである。道化は笑いやおどけた仕草やジョ-クなどの規範から逸脱した言動によって、世界を活性化させる力を持っている。即ち、日常世界に於いて抑圧された性とか、暴力とか、無意識との境界線に立つ危険があるが、その多くが最終的には無害な人物である。

(ドストエフスキー作品に登場する道化たち)

さてドストエフスキ-に登場する道化たちには、その大きな特徴がある。それは彼らが全て大噓つきか、或いは大ほら吹きである。過剰に自分自身をよく見せたがる傾向はあるが、無論実態が伴って

いないという現実を持っている。

所がドストエフスキーはこの噓、大ぼらが一種の社会的現象であることを見抜いていた。

ドストエフスキーの晩年にあたる1870年代のロシアは、社会全体に不吉な予感があった。革命結社間の殺人事件を扱った、「悪霊」の発表から間もない1873年ドストエフスキーは日記に「嘘についての一言」と興味深い部分がある。

引用。嘘をつくロシアの国民性  ドストエフスキーの日記よりの引用  劣等感、恥ずかしい

わが国では最も尊敬すべき人たちが、最も尊敬すべき目的をもって、全く何の理由もなく、嘘をつくことが出来る。

わが国では圧倒的多数が、相手をもてなす為に嘘をつく。聞き手に美的印象を与え、相手を満足させたい一心で、いわば聞き手の為に自分を犠牲にしてまで、嘘をつくのである。

あたかもドストエフスキーが、自分の作品の解説を買って出たような印象を与える内容である。

しかし作家が公の場で、こうした正面切っての発言をしたという事実は、彼が描いてきた無用者とか道化と言った人物たちが、決して文学の世界にとどまる現象でなかったことを、暗示している。

但しドストエフスキー自身は、ロシア人のそうした虚言癖の根本的理由を明らかにすることなく、単に彼らの抱えている劣等感、自分を恥ずかしいと思う心、そこに原因を求めていたのである。

(ドストエフスキ-昨比の中の嘘つき五人)  ステータスが無い食客、寄生者、居候である。

アメリカの研究者デボラ・マルティンセンによると、ドストエフスキ-文学における最も顕著な噓つきの例として次の五人が挙げられる。

「白痴」   イヴォルギン将軍とその夫人

「悪霊」   ステバン・ヴェルホ-ベンスキ-   レピヤ-トキン大尉

「カラマ-ゾフの兄弟」   フョードル・カラマ-ゾフ

思うに五大長編のうち、「罪と罰」と「未成年」に二つには、不思議と道化的人物は登場しない。

此の五人について考えてみよう。彼らに共通するのは、全員が4050歳代に属し、社会的ステータスが曖昧である。

19世紀に生きた余計者たちには、地主・貴族と言った確固たるステータスがあった。
それに対してドストエフスキ-の描く無用者たちには、それに類した社会的規範はない。共通するの
彼らがいづれも食客と言われる身分なのである。そして彼らには否応なく一つの役割が課されている。それが道化なのである。そこで、より内在的視点から道化ないし食客の存在様式を見てみよう。

食客における道化的行為は、演じる者とそれを見る者との、親密な信頼関係を前提としている。

第一の前提として、食客には必ず彼の身分を保証してくれる主人の存在がある。そして道化はその対価を、主人を喜ばせる笑いで支払うのである。しかし本来的に無色透明な道化と言うのは存在しない。何故なら笑いそのものが道徳的な機能を帯びているからである。従って食客道化はしばしば、

本音とは別の阿りから毒舌・皮肉へと向かう。

他方、主人にしてもその胸の内には、常に道化に対する警戒が潜んでいる。また主人は、マゾヒスティックに歯に衣着せぬ言葉を、道化に求める傾向がある。そして主人と道化の間には、微妙な力学が働くことになるが、社会的な上下のしきたりを忘れた道化は、どんな仕返しを受けるかは、ステパンチコヴォ村とその住人」のファマ-・フォミッチに見事な例がある。

(「カラマ-ゾフの兄弟」の道化 フョードル)

では「カラマ-ゾフの兄弟」のおいぼれ道化フョードルに注目してみよう。

冒頭の修道院での会話で、ゾシマ長老を前にしたフョードルは待ってましたとばかりに、徹底した道化振りを発揮する。これはフョードルの胸の内に主とわが身の対比が定着していたことを物語る。
引用。フヨ-ドルの自分の説明 何故道化なのか

貴方が今御覧になっているのは道化、本物の道化でございます。情けないことに昔からの習慣でして、私は根っからのと言うか生まれつきと言うか、要するに道化者でした。長老様、私の中には悪魔が住みついているのかも知れません。フヨ-ドルは更に一歩踏み込んで、自らの道化について次の様に説明している。私が道化なのは恥ずかしさ故なのです。恥ずかしさから生まれた道化なのです。長老様、私が暴れ回るのも、専ら疑い深い性分のせいなのです。

 

先程引用した作者の日記と合致する。恥ずかしさの故に、つまり道化は自分の良心の痛みを覆い隠す仮面として道化に走るのである。

引用。フヨ-ドルの告白  ゾシマ長老の忠告

「でも私は本当に嘘をつきまくってきたのです。これまで毎日、毎時間ごとに、まさに嘘は嘘の父なりです。待てよ、嘘は父ではなかったような気がする。私はこうやって、いつも聖書の文句をごちゃまぜにしているのです。」

ゾシマ長老はそんなフョードルを憐み、主としての立場からこう忠告する。

「大事なのは自分に嘘をつかないこと。自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間は、自分の中にも周りの人間の中にも、どんな真実も見分けがつかず、遂に自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになる。嘘をついている間にどんな真実も見分けがつかなくなる。」

というゾシマ長老の言葉は、現代の真実をついている様に思う。しかし、そんなゾシマ長老の説教もフョードルには響かない。

ドストエフスキ-が仮に真実を善と見做し、嘘を悪と見做すといった硬直的な価値を足場にしていたら、「カラマ-ゾフの兄弟」に満ち溢れるようなカーニバル的気分は、決して生まれなかった。

(「罪と罰」 嘘の効用) 主人公ラスコ-リニコフの友人ラズミ-ヒンの言葉

所で、「罪と罰」において既に嘘の効用、ないしは嘘の美学とも言うべき哲学を開陳する人物がいたことを思い出そう。

道化的という形容から程遠い登場人物である。主人公ラスコ-リニコフの親友で面倒を見てくれる

好感度満点のラズミ-ヒンである。その彼がこんなことを口走っている。「僕は嘘をつかれるのが大好きです。嘘はあらゆる生物に対して人間が持っている唯一の特長なのだから。嘘は通ずという事です。嘘をつくから僕も人間なんです。所がその一つも思いつかない。自己流で嘘をつく方が、他人が考えた真実を口真似するより余程有益です。」

(賢い嘘は、愚かな真実に勝る) ロシアの諺

ラズミ-ヒンの哲学「嘘はまことに通ず」は、ドストエフスキ-の根本的現実認識に通じている。ドストエフスキ-はこんなことを書いている。「歴史的観点から眺めると、ロシアの民衆にとっては嘘をつくことが、一つの生活の方法としてあった。

ロマノフ王朝の成立以来、常に厳しい専制権力の下で生きてきた民衆にとって、本音と建て前を巧みに使い分け、権力の目をどう晦まして生きていくかが、知恵の使い所であった。

嘘が許される場面で、真実に拘ることは逆に身の破滅を招きかねない。そんなしたたかな認識と知恵を彼らは身につけていた。ロシアの諺「賢い嘘は、愚かな真実に勝る。」これこそロシア的処世術の真骨頂である。ドストエフスキ-は嘘について限りなく警句を吐き続けている。

引用。人は自分で自分に嘘をつく。「悪霊」

人間と言うのは人に騙されるよりも、自分で自分に嘘をつく方が多い。勿論他人の嘘よりも、自分の作り話の方を余計に信じるものと、相場は決まっている。所で本当の真実と言うのは、いつでも真実らしくないものなんだ。
真実より真実らしく見せる為には、どうしてもそこには嘘を混ぜる必要がある。

「ロシアと酒」

さて話を更に発展させる。それはロシアの道化たちが例外なく、大酒飲みであることである。そこで

少しロシアの歴史に於ける酒の意味について考える。ロシアの現代作家が書いている。

初めに言葉ありき。そして言葉は神と共にありき。言葉はウオッカなり。彼によれば、かってアフガニスタン戦争で10年間に、1万4千人戦死したが、現在ロシアでは毎年3万人以上がアルコ-ル中毒で死んでいる。パブロフの条件反射ではないが、ウォッカと言う言葉を聞いただけで、途端に落ち着きをなくすのが、ロシア人の悲しい笑いである。ロシアは我々全員が如何なる政治システムよりも、はるかにウォッカの人質なのだ。端的に言ってウォッカはロシアの神なのだ。

 

実際、専制政治が続いたロシアでは、酒を飲み人の前では裸になれる人間だけが、信頼を得ることが出来た。

「カラマ-ゾフの兄弟」に登場する酔っ払いのスネギリョフ大尉は、訪ねてきた娘のイリュ-シャにこう言う。因みに此のスネギリョフ大尉も独特の道化である。

引用。「カラマ-ゾフの兄弟のスネギリョフ大尉の言葉」

ロシアでは酔っ払いが一番善良である。一番善良な奴らが一番の酔っ払いという事で、国家は民衆のウォッカに対する盲目的従順さを利用している。

(ドストエフスキ-と酒)  作品における酔っ払いの例→「白痴」のイヴォルギン将軍

ではドストエフスキ-とアルコ-ルに関係はどうであったか。日記の中で彼は、良識ある一市民としての立場から、過度の飲酒がもたらす害について次の様に言っている。

「酒は人間を野獣化させ、妻や子を棄てさせてしまう。」酒との付き合いは極めて穏やかなものであったらしく、食事時に少量であったとされる。その節制があったので、多作が可能であった。

ドストエフスキ-の描く酔っ払いは、その性格的弱さのために常に脇役である。

しかしその存在感は時として、主人公を凌ぐこともある。その例を挙げれば、「白痴」に登場するイヴォルギン将軍である。彼はその凄まじいアルコ-ル中毒と虚言癖の為に、一家の鼻つまみの身になっている。将軍が次々と繰り出すほら話や嘘は、周囲の人々を笑いの渦に巻き込むどころが、読者も混乱させる。おまけにイヴォルギン将軍には、本来道化が従うべき、主人がいないので、その狼藉振りは際限がない。

唯一の聞き手はことによると、主のム-シキン公爵一人であることかもしれない。彼はこんなことも言う。

「自分はクリミヤ戦争で胸に13発の銃弾を受け、フランスの名医が駆けつけてくれた。ナポレオンの

モスクワ遠征の際には、自分は小姓として仕えた。そしてナポレオンがモスクワを去る時、彼は涙ながらに自分と別れを惜しんだ。」

すべて荒唐無稽の極みである。ところがそれらの嘘やほら吹きが、なぜか不思議な迫真性に溢れている。その結果、話を聞いた人々も読者も、それが嘘であろうがなかろうが、どうでもいい心境になってしまうのだ。

イヴォルギン将軍のほら話を聞き終えたム-シキン公爵の考えが興味を引く。それは以下の通り。

この世には嘘をつくことに、我を忘れんばかりの情熱を燃やし、それでもその陶酔の頂点にあって、ひょっとして自分の話を信じて貰えないのではないかと、心の中で疑いを抱く嘘つきのタイプもいる。多くの読者はム-シキン公爵以上にしかしム-シキン公爵の真面目腐った洞察が、必ずしも的を得ていないことは小説が裏付けている。

多くの読者はム-シキン公爵以上に、ヴォルギン将軍のほら話の持つ奥行きを理解しているのである。イヴォルギン将軍を単なる道化と呼ぶことは許されない。
そして、ここで見逃してはならないのは、このイヴォルギン将軍の嘘が、ドストエフスキ-の単なる資料収集に基づくものであるからである。
嘘が芸術的環境を呼び起こす時、物語はフィクションと現実の垣根を越えていく。

「罪と罰」の主人公ラスコ-リニコフの友人ラスシ-ヒンの言葉を借りれば、「嘘はまことに通ず」

では翻って真実とは何だろう。

(ドストエフスキ-の真実に関する名言)
ドストエフスキーはしばしば、真実の意味を巡って名言的な言辞をはいた。その代表的な言葉を引用してみよう。

「真実とは大抵の場合、気の利かないものである。」  「カラマ-ゾフの兄弟」より。

そして改めてドストエフスキ-の日記の一部を反芻しよう。

「ロシアにおいては、真理は常に幻想的な性格を持っている。ロシアは真実と嘘が容易に反転しかねない危険な風土である。」ロシア人はしばしば言葉の民と言われる。国民性の一つとして、信じ易さと言う特質があるように思える。

 

「コメント」

いつものことながら、講義の中でドストエフスキ-の多くの作品に触れながらなので、記憶が

ついて行かない。故に度毎に、小説の内容を確認しなければならない。ロシア人の名前もいつまでも馴染めない。残り三回、ゴールは見えてきたが胸突き八丁。