210923「プロとコントラ、あるいは対立と和解」
ドストエフスキー最晩年の作品世界と、彼の世界観について考える。ドストエフスキ-の生きた最後の3年は、相次ぐテロによって社会全体に、物情騒然たる気分が満ち渡った時期であった。
(ニコライ二世暗殺事件前夜)
皇帝暗殺事件が勃発する1881年3月1日に向けて、時代の針はすでに、カウントダウンの機会を窺っていた。まさにテロリズムの幕を切って落とす事件が、3年前のペテルブルグで起こった。
21歳の女性革命家ヴェ-ラ・ザス-リチは、ペテルブルグ市長を狙撃したので有名である。発端は、
前年の7月官吏への不敬を理由とした鞭打ちの刑が執行されたことである。
(ザス-リチ事件)
問題は、実行犯ヴェ-ラ・ザス-リチの裁判である。無罪が下された。因みにヴェ-ラ・ザス-リチは「悪霊」で扱ったネチャ-エフ事件でも、姉と共に逮捕されている。
ロシア憲政史上、稀に見るこの無罪判決は、帝政ロシアの政治情勢が、いかに危険なレベルにあったかを物語っている。
皇帝権力は世論の動向をにらんで、懐柔策に出たのである。極右派には不満が募る。ドストエフスキ-の同志として知られる三人の同志がいた。三名はこの判決に怒り、ドストエフスキーの同調を求めたが、ドストエフスキーは拒否した。
ザス-リチ事件に関するドストエフスキ-の発言が残されていないので、真意は不明であるが、彼がこの裁判の結果についての友人の回想が残っていた。
ドストエフスキーはザス-リチに、こんな忠告をしたとされている。「もう二度とこんなことをするな。」
(ドストエフスキ-の立ち位置)
さて帝政権力とテロリストの闘いが、激化する中、帝政権力に抱き込まれる、ドストエフスキーであるが、彼の内に和解の為のビジョンがあった訳ではない。
彼の主張は自ずから、内向きとならざるを得ない。一言で言えば、キリストの名の下での精神的団結、文化的価値への覚醒、精神的平安の大切さである。それらを統合して、彼独自の社会主義理念が誕生した。ドストエフスキーは最後の日記で、新しい社会主義の概念について書いている。
「引用」
「ロシアの社会主義の究極の目的は、全ての国民を網羅する全世界的概念の設立である。」
当時のロシア社会では、帝政権力、知識人、更には民衆、この三者による三つ巴の対立関係があった。
その捩れた糸を解きほぐすには、文化しかないというのがドストエフスキ-の考えである。
ロシアに真の文化があれば、いかなる分離現象も起こらなかったであろう。
ドストエフスキーは、ロシアの社会全体の対立の原因を、上流の知識層が、下層の民衆と分離したことにあると見ていた。和解の主役を担うのは、頭脳明晰で若々しい青年たちであった。
若い青年たちと民衆の融合、この二つの層の精神的融合よりも、崇高なものはないとドストエフスキーは言う、
そして融合の為に欠かせないのが、世界的な平安という事になるのだが、それについては前回の
「未成年」で述べたとおりである。
ドストエフスキーはこう書いている。「平安、これがあらゆる偉大な力の源泉なのだ。」
平安とは、まさに真の信仰を生み出す霊感の源でもあるからだ。
(ドストエフスキーとユダヤ人)
さて、ここでドストエフスキ-のユダヤ人説について触れておく必要がある。というのも、彼はロシアの精神的価値を脅かす原因の一つとして、当時ロシア国内に爆発的な勢いで発達した、鉄道敷設工事に目を向けている。ヨ-ロッパ諸国にしても、鉄道網の完成に半世紀掛かった。それに対してロシアは、それを10年間で成し遂げた。ドストエフスキーは、彼の考える宗教的理想と相容れない、近代化に深い懸念を持ちながら、次の様に述べている。
「我が国の中核はどこにあり、誰の手にあるのか。我が国の経済力を支配しているのは、その鉄道経営者であり、ユダヤ人なのではないか。」
近代化、文明化の社役であるユダヤ人への憎悪は尽きることがない。
彼の信念によれば、信仰の源であるはずの平安を、かく乱する張本人こそが、ヨーロッパ文明の象徴である鉄道であり、その推進者であるユダヤ人という事になる。
ヨ-ロッパから帰った間もない1873年、既にユダヤ人とキリスト教文明との戦争としてとらえ、ロシアの滅亡はユダヤ人からやってくると書いている。
「引用」
ユダヤ人たちは民衆の生き血をすすり、民衆の堕落を自らの価値とするであろう。
思想家ドストエフスキーにおける最大の汚点とも言うべき、反ユダヤ主義であるが、実の処、真の
信仰と民衆回帰の理念を、自ら生み出した産物と言うことが出来る。
但し将来に向けて、ユダヤ人との和解を期待する部分もあった。ロシア人は歴史の途上で経験してきた不幸と、ユダヤ人のそれとを較べ、信仰と血を異にする人々との真の結合に望みをかけてもいた。
(「カラマ-ゾフの兄弟」の書かれた状況)
彼の最高傑作「カラマ-ゾフの兄弟」はこうした状況の中で書かれたのである。
「未成年」の発想から3年、ドストエフスキーは「作家の日記」を出版する傍ら、壮大な小説の構想に
没頭していた。連載開始に先立って、父の領地を40年振りに訪ねている。その時の様子をアンナ夫人は次の様に書いている。「後で親戚の人に聞いた話だと、夫は想い出の多い公園や周辺を歩き回り、昔好きだった森まで往復したそうである。」
ここでも引用されている森は、フヨ-ドルが謎の死を遂げた所であり、「カラマ-ゾフの兄弟」でも父殺しのモチ-フを暗示する象徴的場所である。
「カラマ-ゾフの兄弟」はロシア中西部の田舎町で起きたフヨ-ドル・カラマ-ゾフ殺害事件の犯人探しのミステリ-である。
(次男イワン・無神論者と三男アリョ-シャ・修道僧の議論)
しかしドストエフスキーは、この物語を単にミステリ-の次元に押し込む事無く、そこから19世紀のロシア全体いや、人類的壮大なドラマとした。「カラマ-ゾフの兄弟」の舞台となる、スタ-シャ・ルッサの
安酒場で、カラマ-ゾフ家の次男で無神論者のイワンと、修道僧のアリョ-シャが議論をしている。
そこの議論を。簡単に言うと次の様になる
即ち世界にこれほどの不幸や悲惨が,満ち溢れているのに、それでも神の存在が信じられるというのか と言う問である。イワンは修道僧アリーシャの目を開かせようと、ありとあらゆる悲惨のエピソ-ドを述べる。そして、悲惨の究極にあるのが、子供の虐待である。
自分の飼い犬に怪我をさせたという理由で、召使の子を閉じ込め、翌日裸にして猟犬の餌食にさせる地主の話しが出てくる。
イワンはアリョ-シャに向かって言い放つ。「この男をどうすれば良い」アリョ-シャは答える。「銃殺にすべき」イワンの作戦は成功したかに見えた。こうなるとイワンの独壇場である。
(セビリアでのキリスト降誕と、大審問官との問答)
彼は自分の哲学を補強すべく、自作の物語をし、大審問官を朗読する。大審問官→セビリアを舞台にした叙事詩
異端審問を司るのが大審問官。キリストと彼の問答。
ここで提起されるのは、自由か独裁か、自由か専制か、というテロの時代の根幹にかかわる現実の問題である。
これは又我々グロ-バル社会の根幹にかかわる問題でもある。舞台となるのは、異端審判の嵐が
吹き荒れる16世紀のスペイン。この時代のスペインは、世界史上まれにみる繁栄を勝ち得て、皇帝権力の庇護のもとに、教会は権力を欲しいままにしていた。そしてスペインでも最も栄華を極めた町セビリアの広場にキリストが降りたつ。キリストは二つの奇跡を実現するが、それを見た大審問官は、その彼を捕縛し、なぜ我々を邪魔しに来たかと詰問する。
大審問官の心の中では、もはやキリストの奇跡無しで、我々はやっていけると過大な自信を持って
いたのである。
「引用」
15世紀の間、我々はこの自由を相手に苦しんできたが、今やそれも終わった。しっかりし地に根付いた。しっかりと根付いたのが、お前には信じられないのか。
大審問官が大聖堂をバックにして、勝ち得た権力は、キリスト自体が従わねばならないほどに絶大になったのである。
大審問官の意識の中で、歴史は既に完成しており、預言者キリストの出番などないのである。数多くの異端を、刎頸によって葬ってきた、忌まわしい過去はあるものの、大審問官の胸の内には、キリストの再現を待つことなく、神の国を実現したという絶大な自負がある。
勿論、一抹の疑念が無いわけではない。しかし、聳え立つ聖堂を見よ、これこそキリストの力なくして、
歴史が完成した証ではないか。
大審問官とは世界の救いを上からの力、精神に対する物質の力で、実現しようとする独裁権力の
シンボルである。
大審問官によれば、キリストの教えは余りにも高邁に過ぎ、民衆はとてもついて行けない。そもそも、キリストの教えを実現できるだけの、精神の自由と力を持ち合わせていないと、考える。
大審問官は言う。人間という物は、跪くべき相手を常に求めている。
大審問官はいう。弱虫の民衆の良心を永久に征服する三つの力に言及する。奇跡・神秘・権威。
この三つがあれば、民衆を従えることが出来ると考えるのである。
所が現実にキリストは、これら三つの威力を全く否定し、どこまでも精神の自由の大切さを説いた。
大審問官はそこを突く。
引用。
ところがお前は知らなかった。人間が奇跡という物を斥けるや、直ちに神も斥けてしまうことを。人間は神よりもむしろ奇跡を求めているからだ。
思えばこの大聖堂の広場で、キリストが行った二つの奇跡は、大審問官が最も恐れた事態であった。だからこそ、彼はキリストに対して、火あぶりの刑を決めたのである。大審問官は、もはやキリストの指示に従って、人々を正しい道に導く力を失っている。
人間は地上のパンを得ることなくして、天上のパンを手に入れることは出来ない。しかし地上のパンによって、安心立命を得た人間に天上のパン即ち精神の自由へと進む勇気はない。人間とは自由を恐れる臆病な存在であるという。
さてここまで私達は、当然人間の精神の力を軽んじる大審問官を、果たしてキリスト者と言うことが出来るかという疑問に突き当たる。それを見越したかのように大審問官は、タブ-とでも言うべき一言を口にする。
引用。
それなら聞くがよい。我々はお前とはなく、あれと共にあるのだ。これが我々の秘密だ。
あれとは、他でもない悪魔即ちアンチキリストなのである。
(:現代の我々の姿は大審問官のいう通りなのかもしれない)
大審問官の章が描き出すのは、私達が生きる現代の姿そのものである。私達は精神的な価値を
失い始めている。情報と言う餌を飼い葉のように食している家畜、それが現実の姿なのである。
そんな時代の到来の警告として、この大審問官の章を読む時、私達が本来目指すべき精神の自由とは何なのだろうという問題に突き当たる。恐らく、その問いに対して答えられる人々は多くはない。
しかし「カラマ-ゾフの兄弟」における議論は、無神論者イワンの一方的優勢で終わる訳ではない。
この大審問官の圧倒的存在感と、哲学の威力の前で、アレクセイが話すことが出来たのは、ゾシマ
長老の伝説である。
(この問題へのゾシマ長老の話)
イワンの思想を、コントラ即ち否定の思想と、呼ぶことが出来るのであれば、アレクセイの思想とは
プロ即ち肯定の思想ということが出来る。講師が「カラマ-ゾフの兄弟」を読んだ時に、難関であったのが、このロシアの修道僧にあった。
50歳になり、実際に「カラマ-ゾフの兄弟」の翻訳を始めた、私の心を強く打ったのは、此の説教の部分であった。最晩年のドストエフスキーは、プロ(肯定)の立場に立って、世界を捉えようとしていた。
引用。
兄弟たちよ。人々の罪を恐れてはいけない。罪がある人間を愛しなさい。何故ならそれは神の愛であり、地上における愛の究極だからである。神が作った全ての物を愛しなさい。その全体を、一粒の砂も、神の光の一筋一筋を愛しなさい。
動物を愛しなさい。植物を、関わるものすべてを、特に子供を愛しなさい。
(最晩年のドストエフスキー)
ゾシマ長老の境地を、共有できるまでの道のりは、まさに茨の道であった。
さてドストエフスキ-の信仰告白、これを仮に「カラマ-ゾフの兄弟」とするならば、これは成功したと言えるのか。
その判断は時代によって異なってくる。ドストエフスキ-の信念とは別に、小説がどう読まれるかは
読者の自由だから。
歴史的に答えは二つに分かれる。真実は一つでも、答えは高低と否定の二つに分かれる。
ドストエフスキ-の真意はどこにあったのか。改めて繰り返すがコントラかプロかの答えは、それぞれの時代が要請するものであり、ドストエフスキ-の真意は、これに反射する鏡そのものであったといえる。
さてドストエフスキ-は傷を負った作者である。最晩年を迎えたドストエフスキーの中で、その内心に吹きく刻まれた二重性の傷は癒されたのか。その瘡蓋は剥がれ、新しい皮膚が生まれたのか。
彼の宗教的理念がファナティックに色合いを増せば増すほど、彼の発言は自己防衛的な色彩を強めていく。
保守派のイデオロギストとしての自分、そして生身の作家である自分との間に横たわる、溝は埋まったとは言えない。
(プーシキン銅像除幕式でのドストエフスキーの講演)
公式イデオロ-グとしてのドストエフスキーが、その存在を強烈に印象付けた事件がある。それが1860年のプーシキン銅像除幕式での講演である。彼はこの講演で、ロシアの国民的詩人プーシキンの持つ、国民的意味と世界的な意味を強調しながら、仮にプーシキンの存在が無ければ、ロシアは
その後も後継者も持ち得なかったと言った。又ロシアの独立した価値に対する人々の信仰も、ヨーロッパにおいてロシアの果たすべき使命に対する信仰も生まれなかったと。
ドストエフスキーが、プーシキンに見ていたのは、民衆のキリスト教原理の体現者である。そしてプーシキンとキリストのイメ-ジが、二重写しになっていた。因みにプーシキンの没年は1837年、37歳。
余計者エフゲニ-・オネーギンの誘惑を断ち切った公爵夫人タチアナは、ロシア民衆の精神的な理想として受け止められた。→エフゲニー・オネーギン プーシキンの韻文小説で、チャイコフスキーによってオペラ化された。プーシキンの理解それ自体、極めてイデオロギッシュであり、プーシキンが抱いていた考えと、どこまで重なり会うかは疑問である。
少なくともプーシキンは、ドストエフスキーが講演で描き出したイメージよりは、はるかに文学的であった。
(ドストエフスキーの考えるロシア人)
この現代未聞の現象を通して、ロシア人は普遍性、世界的即ち全人世、或いは世界における自らの使命に目覚めることが出来ると、ドストエフスキーは考えるのである。
引用。
ロシア人の使命は紛れもなく全ヨ-ロッパ的であり、全世界的である。真のロシアである事、完全な
ロシア人になる事は、全人となる事と言ってもいい。ここで言う全人とは、完成された理想型としての人間と理解して欲しい。
しかし、全人という事は、単に全ての人々の銅像となる事だけではなく、全ての民衆を同胞として結合させ、全体調和の目標に向かって努力することを意味する。
さらにドストエフスキーは、ロシア人の心が全人類への、同胞的結合に適した素質を持っていると主張する。
しかしドストエフスキーはふと我に返る。自分のこの熱烈なプーシキン礼賛を、裏付けてくれる客観的な証が、現実のロシアに存在するであろうか。少なくとも今のロシアには存在しない。
しかしドストエフスキーは、キリストの自ら奴隷の姿でこの世に立つ姿を現した現実、そしてキリスト自身が、秣桶で生を受けた事実に目をつけ、その未来に希望を託すのであった。
引用。
仮に理想が夢であるとしても、プーシキンと言う人間がいる以上、少なくともこの夢の根拠となるべき所は存在する。
さて、プーシキン講演そのものは一読して、ファナティックであり、信仰と夢が時として合体し、現実と未来が一瞬の間に融合する様を見て取れるようである。思うに、この講演はプーシキンへの過剰なまでの共感なくして実現しなかった。
しかし過剰な賛美と、ロシアの使命に関する期待は、それまでの社会的状況を制して成立したものであった。
保守派イデオロ-グとして、彼は自らの無力を意識しつつも、和解という妄執の虜になっていた。
(ドストエフスキーへの国家監視の解除)
1884年アレクサンドル二世暗殺の前年、爆破事件や大臣狙撃事件が起きる。興味深いことにこれと同時期に、ドストエフスキーに対する監視の解除が通告された。彼はシベリア流刑以来、国家による監視を受けてきたのである。
ドストエフスキーがようやく皇帝権力から身分を認知された瞬間であった。
弱体化を見せ始めた帝政権力にとって、ドストエフスキーの取り込みは不可避であった。ドストエフスキー自身、自ら望んだその処置に身を委ねたことも事実だが、その行為自体には、したたかなサバイバルの意図が隠されていた。
当時の政府上層部の、政情に関する懸念は、日々に膨れ上がっていった。
友人の予言を引用する。
引用。
革命が起こったらドストエフスキーは大きな役割を演じるだろう。
これが同時代の友人の心の中にある、最晩年のドストエフスキーの姿なのである。彼自身、神と革命を両天秤に置きながら、文学の力、言葉の力によってのみ実現する道を、模索していたことは間違いない。
そして使命の全ては「カラマ-ゾフの兄弟」の続編に記されるはずであった。
次回は最終回、「カラマ-ゾフの兄弟」のエピロ-グを読み、遂に書かれずに終わった続編について、想像力を働かせてみよう。
「コメント」
ドストエフスキー文学の集大成が「カラマ-ゾフの兄弟」なのだ。宗教的、思想的、国民的。ロシアという国はとてつもなく、理解しずらいのは今も変わらない。