211202⑨「防人苦しみと、悲しみと出会う」

(防人とは、防人の歌とは)

家持は天平勝宝7()、兵部少輔として難波津へ。九州の行く防人を検査する業務についた。防人は東国の軍団に属する兵士が、交代で筑紫の防衛に当たることになっていた。任期3年で、毎年千人ずつ交代する。防人たちは東国軍団から、防人部領使(ぶりょうし)→防人を諸国から難波津まで送る役人、これに率いられて難波に集合し、船で筑紫に行く。

防人たちの歌は、基本的には難波で詠まれていると考えられるが、それを部領使が書きとって、家持に提出下のであろう。防人たちは東国人で、国訛りがあるが、それが一字一音式の万葉仮名で書き取られているのである。文字使いは国毎に違うので、これに部領使の筆使いとか、文字使いの癖が混じって残っているのである。防人達とはどのようなものか。まず国毎に分かれている。

 

最初は天平勝宝7()26日、「交替で筑紫に遣わされる諸国の防人らの歌」と題してある。

84首。更に「昔の防人が歌」8

「昔、年に相替りし防人が歌」1首  計93首が納められている。

(遠江の防人歌七首)

20-4321      東国訛りが多い 遠見国造丁

畏(かしこ)や 命(みこと)(かがふ)り 明日ゆりや 草(かえ)がむた寐む 妹(いむ)無しにして

恐れ多い命令を頂いて、明日からは草と共に寝る事でしょう。妻もいないのに。 

 国造丁 遠江長下群 物部秋持

20-4322      主帳の丁→帳簿を付ける人で字が書ける人の作

我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず

私の妻は、とても私の事を恋しがっているようです。飲む水にも妻の陰が映って、忘れられない。

20-4323      防人山名郡(静岡県磐田市)の丈部真麻呂

時々の 花は咲けども 何にずれて 母とふ花の 咲き出で来すけむ

季節が変わるごとに、花は色々と咲くけれども、どうして母と言う花は、咲かないのだろう。

20-4324      

遠江(とうとうみ) 志留波(しるは)の磯と にへの浦と 合ひてしあらば 言も通はむ

遠江のシルハの磯と、今いる海岸が、もしも近いならば、言葉も通うじるのに

20-4325

父母も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも 捧ごて行かむ

父母が花であったらいいのになあ。旅に出る時には、大事に手に持って行けるのに

20-4326

父母が 殿の後方(しりえ)の ももよ草 百代(ももよ)出でませ 我が来たるので

父母は、屋敷の裏のももよ草のように、百代までも生きて下さい。私が帰るまで。

20-4327

わが妻も 絵に描き取らむ 暇(いつま)もが 旅行く我は 見つつ偲ばむ

私の妻を絵に描く時間があればなあ。旅の途中で見て懐かしみたいなあ

 

こうして70首が並んでいて、最後に家持の註がついている。26日に遠江の部領子が持ってきた歌18首の中で拙劣な物11首除いて7首を載せた。

 

防人の歌は先の戦争下で例えば次のような歌が、戦意高揚に使われた。

20-4373  下野の防人

今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我は

もう今日からは、くよくよと後ろを振り返らずに天皇の為に旅立つ私は

 

(防人の歌は類型的何故か)

しかし今読んで来たように防人の歌にそんなに勇ましい歌はそれほどない。家族との分かれ、妻を懐かしむ歌が殆どである。戦後はそれを強調して、防人たちは東国の伝統に従って、自分の思いを歌にしたのだと評価されてきた。しかし防人の歌と言うのは極めて類型的である。家族を思う情に埋め尽くされている。それはどうしてなのか。

例えば

20-4329  相模の防人

八十国は 難波に集ひ 船かざり 我がせむ日ろを 見も人もかせも

諸国の防人たちが難波に終結し、舟飾りをして出帆する。その姿を見送ってくれる人がいたらなあ。

20-4330   鎌倉の防人

難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母もなし

難波の港で、船出の準備をしっかりと、整え今日の日に、いよいよ行くが、見送る母の姿もないなあ

 

二首とも同じ発想で詠われている。作者は同じ相模で、同郷の防人たちで宴会でも開いて、一人ずつ歌っていく。これに影響されているのかもいるのかも知れない。前の人と同じ様に歌ってしまう。

所が別の国の防人の歌にも、似たような歌がある。

20-4363  常陸の防人

難波津に み船おろすえ 八十楫(t)貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ

難波津に船をおろして、沢山の楫をつけて今漕ぎ出でたと、妻に伝えてくれ

 

常陸の国と相模の国で同じ様な、発想で歌を作っているのはどうしたことか。同じ場所で宴会をしているとは考えにくい。

そうではなくて

20-4368 常陸の国の防人

久慈川は 幸(さき)くあり待て 潮船に ま楫しし 貫き我は返り来む

久慈川は変わらぬ姿で待ってしておくれ。潮船に楫を沢山つけて急いで帰って来るから。


これとそっくりな歌がある。

9-1668   紀伊に行幸があった時の歌

白崎は 幸くあり待て 大船に ま楫しじ貫き また返へり見む

無事にて居なよ白崎よ 大きな船の両舷に楫を沢山つけて又身に来ようと思うから

 

4368の表現であるが、防人は基本的に徒歩で行って、難波から船で筑紫に行く。だから潮船にま楫つけるというと久慈川まで、船で帰っていくことになり現実的でない。

という事は巻9-1668の歌の型を利用して、作ったと考えざるを得ない。

:結局防人たちの歌は、天皇の命令を恐れ多くして、泣く泣く家を出て、家族に会いたいというのが殆どである。そういう類型は、歌の場の共感関係で齎されると説明される事が多いが、類型は国を跨いで存在するので、その場その場で、類型が出来たというのは説明できない。それから不自然なことも色々とある。例えば武蔵国の防人の歌に妻の事の歌が多いことである。

 

以下は夫婦の歌とされる。

20-4419 武蔵国橘樹郡 上丁物部真根 

家ろには 蘆火焚けれど 住みよけを 筑紫に至りて 恋しけおもはむ

家では、蘆を燃すと煙モウモウで大変だけど、住み良い家だった。筑紫に行ったら恋しく思うだろう。

20-4420 その妻

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば わが手と付けろ これの針持ち

旅のごろ寝で、着物の紐が切れたならば、私の手が縫うと思って、この針を持ってつけて下さい。

妻らしい歌であるが、夫の歌と響き合わない。唱和するのであれば、何か共通点を置くのが普通であろう。夫の歌は、蘆を焚く家の生活を歌う、妻は紐が切れたら針で縫ってねという事で、接点がない。

 

次にもう一組の夫婦。

20-4421  武蔵都筑郡

我が行きの 息づくしかば 足柄の 峰延ほ雲を みとと偲ばね

私が旅に出て、溜息が出たら、足柄山の峰を這う雲を見ながら、偲んでおくれ

20-4422  妻 服部のあざめ

我が背なを 筑紫にやりて 愛しみ 帯は解かなな あやにかも寝む

あの人を筑紫に送り出しとても気の毒なので、帯は解かないで寝よう。

そりなりに成り立っているが、しかし接点がない。言葉の共通性がない。これはどうも夫婦の唱和とは考えにくい。註によれば、夫婦の歌という事になっている。

 

(昔年の防人の歌)

所が、これらの防人たちの歌の後に、磐余諸君が家持に送って昔年の防人の歌と言うのが8首ある。その一首に

我が背なを 筑紫にやりて 愛しみ 帯は解かなな あやにかも寝む

4422の服部のあざめの歌と全く同じである。盗作とは言えないが、昔の防人の歌というのを、そのまま自分の歌にしたという事になる。

 

(講師の考え)

防人の歌には手本があって、防人たちはそれに則りながら作歌しているという事を強く示唆している。そうすれば色々な事が理解できる。防人たちには彼らの軍団があって、そこには昔の防人歌というのが手本としてあって、これを見て作ったのであろう。これは別に自然な事であって、防人たちは普段から歌を作ることに、親しんでいた訳ではない。歌を作る習性があったのではなく、防人として任命されて、忠誠の誓いとして、いかに悲しい思いをして、任務のために出発してきたかというのを歌って、

朝廷に奉ったのであろう。

防人の歌は、天皇に忠誠を誓うものであって、天皇に対して作られたものであったのだ。

家持は防人の情に共感しながら、歌を何首か作っている。長歌である。

-4331 防人が悲別の心を追ひて痛み作る歌一首 併せて短歌

大君の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひの 筑紫の国は 敵守る おさへの城そと 聞こしめす 四方の国には 人さはに 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向かひ 顧みせずて 猛き軍士と 

ねぎたまひ 任けのまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の 妻をもまかず あらたまの 月日数えて 蘆が散る 難波の三津に 大舟の ま楫しじ貫き 朝なぎに 水手整へ 夕潮に 楫引き折り 率ひて 漕ぎ行く君は 浪の間を い行きさぐくみ ま幸くも 早く至りて 大君の 命のまにま ますらをの 心を持ちて あり巡り 事し終はらば 障まはず 返り来ませと 斎瓦を 床辺にすえて

白たへの 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは

大君の遠く離れた朝廷筑紫の国は外敵から守る抑えの砦。大君の治めておられる四方の国々には、人々は多く満ちているが、とりわけ東男は敵に向かって命を顧みない勇敢な兵士と労われている。任命されるままに、母もとから離れ、或いはなよやかな妻から離れ、任務に就く。その日までの月日を数えながら、難波の港に集結し、大船の楫を左右に揃えて貫き並べる。朝なぎを見計らって、漕ぎ手を集め、夕潮に乗って、楫を倒し、軍団を率いていく君。波の間を押し分け、早く無事に筑紫に辿りついて、大君の命令のままに任務を果たそう。男子たる心を持って任務に就く。任務が終わったら、つつがなく難波に帰ってと祈っている。神聖な酒甕を床に据えて、純白の着物の袖を折り返し、黒髪を敷いて長い日々を待っている事だろう、彼らの愛しい妻たちは。

 

防人たちがどうやって、妻と分かれ父母と分かれて、防人にやってきたかを家持は代わって歌ってやっている。防人の歌と言うのは、手本に従って作った訳だから、全体の水準は、低いものだと思う。

 

そして彼らの代わりに、自分で彼らの気持ちを代弁という事で、何首も作っている。

結局防人の歌でよく言われるのは、家持が手を回して引率係達に言い含め、防人に歌を作らせたという事。

しかしそれならば、何故何首提出されて、何首採用しなかったなどと書く必要はない。

これは公文書として、部領使達が、防人の歌を忠誠の証として、集めて朝廷に奉ったもの。家持が役目として、その中で良いと思ったものを万葉集に乗せたと考える。

朝廷から、防人の慰労のために勅使が来ていた事実もある。そして防人たちも、いやいや歌を作ったのではなかろう。

自分達の辛い思いを、歌に歌うという事は、あるカタルシスを齎したことであろう。しかし、防人達に歌を作る習慣があったと言う事では、絶対にない。防人と言う任務を背負って、仕事として詠っているのである。

 

家持の歌は、天皇の命で越中に赴任して早々に、病気に倒れるが、その時の歌に、横たわっていると家族たちのことが次々と思われるという歌が巻17に残っている。それによく似ている。その中で

大君の まきそのまにまに とか  大君の命かしこみ という言葉が出てくる。

天皇の御命令だからこそ越中まで来たのに。なのに病に倒れてと言う風に歌う歌を、防人に対する同情の歌と言うのは表現がよく似ている。自分の立場に重ね合わせる所があったという事だろう。

防人たちと家持とでは、身分上では天地の開きがあるが、私情を犠牲にして、天皇に仕えるものと言う一点で、家持と防人は共通しているのだ。そういう共感を持って、家持は防人の歌を万葉集に収録した。そして彼らに同情する歌を作ったという風に思う。

 

「コメント」

 

防人たちがそれぞれに歌を作れることに、大きな疑問を持っていたので、かなり解消した。古代日本人には歌心があったのだなどと、実しやかに言う文化人。日常的に歌っていたなどと言う奴。575が定着していたとか・・・・。