211104「『吉野讃歌』の歴史」

前回は、陸奥国から黄金が出た時の聖武天皇の「出金詔書」の中に、天皇の軍事をつかさどる一族の長として、大伴氏の立場を反映する部分があった。それは皇位継承と深く関わっていた。藤原氏出身の光明皇后の娘・阿倍内親王の即位を意味するものでもあった。この直後に、家持が吉野讃歌を作っている事で明らかである。

それでは吉野讃歌はどういう意味を持つのか。

これは天武天皇に由来する。天智天皇のもとを去った大海神皇子は、吉野に隠遁し、天智天皇の遺児・大友皇子打倒の壬申の乱は吉野から始まる。そして、既に紹介したが、壬申の乱に勝利した

天武天皇は、皇位継承に関わる皇子たちを吉野に集め、「吉野の宮に出でます時の御製歌」として、皇太子たちが争いをしないという誓いの歌を作る。そして、これは皇后の産んだ草壁皇子の立太子でもあった。しかし草壁の皇子は即位の前に病死し、遺児・軽皇子(文武天皇)を残した。皇后は天皇一族の出身で、その産んだ直系男子を皇太子とするという事にするという制度としようとした。高市皇子は持統天皇下で太政大臣となり、皇太子格であったが、持統天皇より先に没。この時に持統天皇は吉野を忘れるなという事を強調する。そして在位中に34回の吉野行幸を行う。これは天武天皇のカリスマ性を、自分の統治に利用するためである。この時に詠われたのが、柿本人麻呂の吉野讃歌である。

吉野讃歌

1-36 長歌

やすみしし 我が大君の 聞こしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 船競ひ 夕川渡る

この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす みなそそく 滝のみやこは 見れど飽かぬかも

我が大君の治められる国は沢山あるが、山も川も清い所として、吉野の秋津の野辺に、宮柱を太く、御殿をお建てになったので、大宮人達は舟を並べて朝の川を渡り、舟を漕ぎ競って夕べの川を渡る。この川のように、絶えることなく、この山のようにいよいよ高く治められる滝の離宮は、いくら見ても

飽きないものだ。

1-37反歌

見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む

見ても飽きる事のない吉野の川の常滑のように、絶えることなく、又立ち返って見よう。

1-38 長歌

やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 滾つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山やまつみの 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 行き沿ふ 川の神も 大御食(おおみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網刺(さでさ)し渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも

我が大君が神として、神らしく振舞うとして、吉野の川の急流の谷に高殿を高く作られて、登って国見をすると、幾重にも重なる青垣山は、山の神が捧げる貢物として、春は花を頭に飾り、秋は黄葉を飾る。川の神も、お食事として、上の瀬で鵜飼をを行い、下の瀬で小網代を張り巡らす。山の神、川の神も心から仕える御代である事よ。

1-39 反歌

山川も 依りて仕ふる 神ながら 滾つ河内に 船出せすかも

山の神も川の神も、心から仕える神として、大君は急流に船出なさることだ。

 

この後、軽皇子が即位(文武天皇)。しかし25歳で没。この為、母が元明天皇として、その後姉が元明天皇として中継ぎをする。文武天皇には皇后は居なかったが、藤原不比等と県犬養三千代との間の子・宮子が夫人となり、首皇子(聖武天皇)が遺児となった。この間に吉野行幸は無かった。
再開するのは、首皇子が皇太子となる機運が高まった頃である。養老7723年。

6-907 長歌 元正天皇吉野行幸  傘の金村

滝の上の 三船の山に 水枝さし 繁に生ひたる 樛の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし領らさむ み吉野の 秋津の宮は神柄か 貴かるらむ 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ 大宮と 諾し神代ゆ 神代の昔から 定めけらしも

急流の畔に三船の山に、瑞々しい枝を伸ばし、ギッシリと生え茂っている栂の木のように、次から次へと続いて、 万代まで治められるであろう吉野の宮は、神様故に貴いのであろうか、見飽きないものである。山と川が清らかなので、ここを皇居と定めたのであろう。

6-908 反歌

毎年(としのは)に かくも見てしか み吉野の 清き河内の檄つさ白波

毎年、この様に見たいものだ。吉野の清らかな河内の激しく滾る白波よ。

6-909 反歌

山高み 白木綿(しらゆう)花に 落ちたきつ 滝の河内は 見れど飽かぬかも

山が高いので、白木綿の花のように白く落ち滾る、滝の周りの風景は、見ても飽きないことである。

 

:元正天皇の吉野行幸の次の年に、聖武天皇即位。元亀三年 724年。

そして、大仏建立、陸奥国黄金出金となるが、孝謙天皇の吉野行幸は無かった。天武天皇の直系男子で継承でなかったのが影響しているのか。(私見)

 

「コメント」

 

吉野讃歌は、大伴旅人、大友家持も作っているが、奏上されていない。また万葉集にも記載はない。家持の長歌と反歌二首は調べたらあったが、記載省略。何かしら微妙な感じ。