230413②「万葉集」:子を思う

今日は万葉集の山上憶良の歌から、子供に食べさせてやりたいという一言を紹介する。万葉集は奈良時代に出来た日本最古の歌集。204516首を集めた大歌集であるが、名前も分からない人も含めて多くの人の歌が収められている。

山上憶良 660年~733年 74歳 従五位下筑前守

憶良はその中で比較的古い時代の歌人で、奈良時代より前の斉明8年660年の誕生、没したのは奈良時代前半の733年。74歳。この時代としては長生きであった。素性はよく分からないが、従五位下筑前守。遣唐使の経歴があり、遣唐使は、明治時代の洋行帰りは政府の要人となるが、そう言う感じのエリ-ドである。この時代を代表する知識人の一人で、万葉集を代表する歌人の一人でもある。家族、特に子供への思いを歌に多く残した。これは和歌の世界では珍しいことで、多くは恋の歌が歌われていた。この中でももっともよく知られた子供を歌う歌である。

 憶良 嘉麻(かま)三部作 筑前の嘉麻で読んだ三部作の一つ。長歌と反歌一首で成り立っている。平安時代の古今和歌集以降の歌集になるとこういう形は余りないが、万葉集では多く見られる。

 

 

5-802 山上憶良 題詞 子を思う歌一首と序 神亀五年七月

釈迦如来は金の口で「人々を我が子 羅睺羅(らごら)と同じ様に、皆平等に思うと仰ったが又、我が子への愛にまさるものはない」 とも仰った。最高の聖人でさえ子を愛する心がおありになる。ましてや世の民草で子供を愛さぬものがいようか。

訓読 長歌

苽食()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ いづくより来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて 

安眠(やすい)しなさぬ

 

5-803 山上憶良 題詞 以下

釈迦如来は金の口で「人々を我が子 羅睺羅(らごら)と同じ様に、皆平等に思うと仰ったが又、我が子への愛にまさるものはない とも仰った。最高の聖人でさえ子を愛する心がおありになる。ましてや世の民草で子供を愛さものがいようか。

訓読 反歌 (しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも

 

題詞の序文。

釈迦が自分の子供 羅睺羅を引き合いに出しているのは、あくまで例えである。言いたいことは、それくらい人間は子供を愛するものであるということ。

802 長歌

苽食()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ いづくより来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて 

安眠(やすい)しなさぬ

「瓜を食べると子供の事を思い出す。栗を食べるとますます愛おしくなる。どこからやってきたというのか。目の前にちらついて、眠ろうとしてもその面影が寝せてくれない」

思ほゆ は、考えようとしないでも自然に頭に浮かんでくる ということ。偲ばゆ 偲ぶ は最近使われなくなってきたが、密かに思うという感じ。この瓜や栗を食べさせてやりたいなという事である。甘いものの無い時代、子どもの好きなものなのである。

陶淵明の詩に「責子」という詩がある。

有雖五男児   五男子ありと雖(いえど)も             

総不好紙筆   総て 紙筆を好まず

阿舒已二八   阿舒(あじょ)は十六になるが

懶惰故無匹 懶惰(らんだ)なること故(もと)(たぐい)なし

中略

天運苟如此  天運 苟(いやし)くも 此くの如くあれば

且進杯中物  且(しば)し 杯中の物を進めん 仕方ないから酒でも飲むか

五人の男の子がいるが、どれも勉強しないと嘆いている。しかし詩に流れているのは愛情で、そういう子供たちを受け入れているのである。

長歌の後半は、夜は苦しい思いで眠れないと、昼と夜が違うことを述べることで、憶良は子供をもつことの楽しみと苦しみを双方を表している。

803 反歌 (しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも

「銀も金も玉も一体何になるのだろう。どんな立派なものも子供に優るものはない」

これは子供の素晴らしさを手放しで褒め称えている訳ではない。こどもが煩悩の対象であるという仏教の教えを理解しているうえで、そういうことを言っているのが重要なのである。子供への愛というのは喜びであり楽しみであるが、それは捨て去るべき煩悩である。しかし私たち凡夫は捨て去ることが出来ないという煩悩を抱えている。それを考えた上でこの歌を歌っている。

 憶良にこの様な子供がいたのか

長歌で、まなかひに もとなかかりて 子供の面影がちらつく と言っていたが、歌で目の前に子供がいるような感じはしない。実は憶良に子供がいたかどうか分かっていない。時代考証をするとこの歌は憶良69歳の時である。

憶良の別の歌もある。

5-897 山上憶良 老身に病を重ねて年を経て苦しみ、また児等を思ふ歌 長歌一首 反歌四首

訓読

玉きはる 現(ウち)の限りは 平けく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむ 世間(よのなか)の 憂けく幸(つら)けく

いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩(からしお)を 注くちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと いふことのごと 老いにてある 我が身の上に 病をと 加へてあけば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蠅(さばへ)なす 騒ぐ子どもを 打ち棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩ひ 音()のみし泣かゆ

「長年病気で苦しんでいると、いっそ死んでしまいたいと思うが、うるさく騒いでいる子供たちを打ち捨てて死んでしまう訳にもいかない。こんなことを見ていると、心では生きていなければという思いが燃え上がる。そんなこんなで思い煩い、声を出して泣いてしまう。」

 

子どもたちがどれほど幼いか、この歌からは分からないが、老いた憶良にまだ一人前でない子供がいたということはこの歌から分かる。子供はいるが今は遠くで暮らしているとか、憶良は筑前にいるが子供は奈良にいるようなことも考えられる。又もう一つ、さらに考えられる可能性として、以前に子供を失った事があるのかもしれない。

万葉集 巻5-904男子(おのこ)の、名は古日(ふるひ)に恋ひたる歌 という作品がある。これはたぶん憶良の作品であろうと言われている。725年の作。

5-904 作者不詳 題詞 男子(おのこ)の、名は古日(ふるひ)に恋ひたる歌 長歌一首反歌二首

注に 歌の形式が山上憶良に似ている とある

訓読

世の中の 貴(たふと)び願ふ 七種の 宝もわれは 何為(なにせ)むに わが中の 生まれ出でたる 白玉の わが子古日は 明星(あかほし)の 明()くる朝(あした)は 敷(しきたえ)の 床の辺()去らず 立てれども 居()れども 共に戯(たはぶ)れ 夕星(ゆふつつ)の 夕(ゆうへ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり 父母も 上は勿放(なさが)り 三枝(さきくさ)の 中にを寝むと 愛(うつく)しく 其()が語らへば 何時(いつ)しかも 人と成り出でて 悪()しけくも よけくも見むと 大船の 思ひ憑(たの)むと  思はぬに 横風(よこしまかぜ)の にふぶかに 覆(おほ)ひ来ぬれば 為()む術(すべ)の 方便(たどき)を知らに 白栲(しろたへ)の 手襷(たすき)を掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ乞ひ祈()のみ 地くに)つ神 伏して額(ぬか)づき かからずも かかりも神の まにまにと 立ちあざり われ乞ひ祈()めど 須臾(しましく)も 快()けくは無しに 漸漸(やくやく)に 容貌(かたち)くづほり 朝な朝な 言ふこと止み たまきはる 命絶えぬれ 立ち踊り 足摩()り叫び 伏し仰ぎ 胸うち嘆き 手に持てる 吾が児飛ばしつ 世間(よのなか)の道 1/3

「世間の人が貴んで欲しがる金銀宝石も私にとっては何になろう。私たちの間に生まれた真珠のような我らが子、古日こそ宝だ。明けの明星輝く朝方には寝床から離れようとしない。昼間は立ったり座ったりして、共に戯れ、夕星が輝く夕方になると、さあ寝ようと手を引っ張る父親や母親から離れようとせず、三枝の真ん中に寝ようとその子が可愛げに言うので、いつか大人になって、良くも悪くも見てみたいと、大船に乗った気持ちで楽しみにしていた。その折も折り、にわかに病魔に襲われてしまった。どうしてよいやらなす術もない。白い襷に身を掛け、まそ鏡を手に取り持って、天の神を仰いで祈り、地の神に伏して額づいて祈った。神様が病気を治して下さるのも、不幸にして病気のままにされるのも、神様がお与えになる運命なのだろうが、おろおろするばかり。ひたすらお祈りしたが、次第に瘦せ細って朝毎に物も言わなくなり、とうとう息を引き取った。私は立ち上がって足踏みするほど、天を仰いで胸をたたいて嘆き悲しんだ。手の中にいた幼子を飛ばせてしまった。これが世の中ということなのだろうか。」

 

5-905 作者不詳 題詞 男子(おのこ)の、名は古日(ふるひ)に恋ひたる歌  注に 歌の形式が山上憶良に似ている とある

訓読 若ければ 道行き知らじ 賄(まひ)はせむ 黄泉(よみ)の使 負ひて通らせ 2/3

「この子はまだ年端もいかない幼子ですから、冥途への道も分かりません。お礼はしますので、黄泉の国からの使者様、どうか背中に負ぶってやってお連れ下さいませ。」

何とも悲痛な歌である。古日か自分の子なのか、他人の子なのか、説は分かれている。あまりにも悲痛な歌なので、憶良自身とも考えられる。そしてそう思うならば、子を思う歌 長歌 巻5-802で、面影がちらつくと言っているのは、死んでしまったのは、古日の面影ではないかと考えて見たくなる。

 反歌二首目 省略

 

 やはり憶良の実体験ではないか

憶良は代作をやっている人なので、親に代わって悲しみの歌を作ってあげたいとしても、これほど悲しい歌を詠めるということは、やはり憶良に同じ経験があったのではないかと想像する。いずれにしても憶良は我々が子供を愛すると言うことを、客観化して歌を創造できた。しかもそれは仏教的な観点から見ると、煩悩であって本当は否定すべきものだと分かっている。分かっているけど、人間はこういう子供への愛を捨てられないのだと分かった上で、歌を詠むことが出来たのが憶良である。自分の体験を心の中で成熟させて、思いを巡らせることによって、万人を共感させる歌が生まれたのである。

 

「コメント」

憶良の 子を思う歌老身に病を重ねて年を経て苦しみ、また児等を思ふ歌、男子(おのこ)の、名は古日(ふるひ)に恋ひたる歌。こういう取り上げ方は今までなかったので、改めて新鮮に感じた。又その心情を赤裸々に歌い上げる姿勢に驚く。

 

第一回では次を心配したが、杞憂であった。