230420③「枕草子」:小さきものへの愛

今回は枕草子から 何も何も ちひさきものは みなうつくし  という一言を紹介する。枕草子は平安時代の中頃、西暦1000年前後に書かれた清少納言のエッセイである。父は万葉集を編纂した梨壺の五人の歌人の清原元輔である。少納言の名については諸説ある。

 春はあけぼの 清少納言の魅力

枕草子と言えば、なんといっても有名なのは 第一段 春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際 少し明かりて 紫だちたる雲の 細くたなびきたる である。春はあけぼの というのは不思議な表現である。私はと言えば、私は男性ですとか、学生ですとか、その属性を表す言葉が続くが、春はと言えば春らしいものをあげるのが考えられ、桜、霞、ウグイスとか色々ある。春と言えば何々というのはこの時代には、約束として色々な言葉があった。それは古今集が10世紀初頭に出来ていてそれが形を作って、人々の間に春と言えばそういうものなのだという共通認識が出来ていた。しかし あけぼの というのはそういう言葉ではない。夏や秋でも あけぼの はある。毎日ある。それなのに 春はあけぼの というのは、 春はあけぼの いとおかし とか 春はあけぼのこそよけれ という所を短くして 春はあけぼの という。

論理的ではない。しかしその後に続く、描写が素晴らしい。やうやう白くなりゆく山際 少し明かりて 紫だちたる雲の 細くたなびきたる この調子で 夏は夜 秋は夕暮れ 冬はつとめて と続く。それぞれの季節の魅力的な時間帯を的確に捉えている。

この時代の宮中の女性たちは、滅多に外出しない。その身の回りの景物からこんなに魅力的な風景を探し出してきている。その観察力は大したものである。しかしこれは勿論、清少納言自身の独自な感覚である。例えば後鳥羽院の 見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ 新古今集 巻1 春歌上 「春の夕暮れに山の麓に霞が棚引いている。これだって十分趣があるじゃないか。夕暮れは秋がいいと思い込んでいたが。」

結局新しい魅力を見つけて、それを表現できた人が勝ちである。春はあけぼの という言葉一つ取っても、今では当たり前の言葉であるが、当時では使われなかったのである。同じ時間帯をいう言葉で暁があるが、この方が使われていた。

この様にかけがえのない言葉を選ぶ表現力において、清少納言は格別であった。こういう観察力と表現力そして自分自身の感覚をずばりできる自信があるのが、清少納言の魅力である。

 枕草子の構成

池田亀鑑(きかん)は枕草子の章段を分類した。

類聚段 は もの という表題を持ち、その表題に適合する対象を作者の好みや考えで集めたもの

日記段  作者が体験した宮廷生活を記録したもの

随想段  上二つを以外すべて 作者が発見した色々なこと

 うつくしきもの

ものを列挙する類聚段の中に、うつくしきもの という段がある。うつくし というのは、現代語の美しいとは違う。可愛いという。前回詠んだ万葉集巻5-801憶良の 子らを思う歌 の部分に うつくしびは 子に過ぎたるはなし とある。次回読む竹取物語ではかぐや姫が竹の中に いとうつくしういたり とある。そういう可愛らしいものとはどんなものであるか、

それを清少納言の観点から比べて見たというのがその題である。145段 

うつくしきもの 瓜に描きたる稚児の顔。雀の子の 鼠鳴きするに踊り来る。瓜は稚児苽といって5cm程度。当時雀を籠にいれて飼っていた。源氏物語にも出てくる。

二つ三つばかりなる稚児の 急ぎて這ひくる道に いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて いとをかしげなる指(および)にとらへて 大人ごとに見せたる いとうつくし→ 二つか三つくらいの子供が、はいはいしてくる途中、小さなごみを見つけて可愛い指で摘まみ上げて、一人一人の大人に見せている様は実に可愛い。

(かしら)は尼削(あまそ)ぎなる稚児の 目に髪の覆へるをかきはやらで うち傾きて物など見たるも うつくし

→髪型を尼のように肩の高さで切り揃えた稚児が、目に覆いかぶさっているのを払いのけもせずに、首をかしげて物を見ている様子なども可愛らしい。

大きにはあらぬ殿上童の 装束(そうぞ)きたてられて歩くも うつくし

→大きくはない見習いの貴族の子が、立派な装束をきせられ、歩いているのも可愛らしい。

をかしげなる稚児の あからさまに 抱きて遊ばしうつくしむほどに かいつきて寝たる いとろうたし

→可愛い稚児が、ほんの一寸抱いて遊ばしているうちに、しがみついて寝てしまうのもとても可愛らしい。

雛の調度。蓮の浮き葉のいと小さきを 池より取り上げたる。 葵のいと小さき。

何も何も 小さきものは みなうつくし。

→ひな人形の道具。蓮の葉のとても小さいのを誰かが池から取り上げたもの。葵のとても小さいもの。なにもかも 小さいものはみな可愛い。

 

この後もまだまだ続く。

今の日本人のキ-ワ-ドは 可愛い であるが、この原点は伝統文化でもあって、見出したのが清少納言の枕草子の うつくしきもの であったと言えるかもしれない。

 枕草子の作られた目的 和歌製作の基本

しかし可愛い話はこれくらいにして、最後に清少納言は何でこんなことを書いているかを話す。こういう ~もの を集める類聚というのは、和歌の題材について良く行うが、平安貴族のコミュニケーションツールは和歌なので、宮中で生きて行こうと思うと和歌は必須となる。それまで積み上げられてきた約束に基づいて詠まねばならない。和歌にはどんな言葉を使うべきか、使うべきでないかという決まりがある。まずこれを知らないと歌にならない。例えば歌枕という、ここが歌に詠むべき地名だという、

そういう地名を集めた書物があったりする。清少納言は一条天皇の中宮定子に仕えていた超一級のキャリアウ-マンである。知的で魅力的なサロンの中宮の周辺に仕えていたのである。

その為に宮中のツ-ルである和歌について、必要な知識を提供するのも重要な仕事であった。

枕草子という作品は余り計画的に全体の構想を練って書かれたものではなさそうだが、和歌を詠むために必要な知識を提供するための文章という部分があった。しかし我々の前に見せられている枕草子の ~もの は、和歌にはとても向いていない、雅でないものもある。→うつくしきもの の赤ちゃんとか。

にくきもの という段もある。 しゃくにさわるもの

急ぐことあるをりに来て、長言するまらうど。あなずりやすきひとならば、とてもやりつべけれど さすがに心はづかしきひと いとにくく むつかし。 硯に髪の入りて すられたる。また 隅の中に 石のきしきしときしみ鳴りたる。

「急用がある時にやってきて、長話をする人。そうはいっても対手が立派で気が引ける人であれば、さすがにむげにもできず、しゃくに障り不愉快である。硯に髪が入ったまますられたの。又墨の中に石が混じってきしきしときしんで音を立てるの。」

いかに続く。

病気の時の修験者。大したことの無い人のおしゃべり。年寄りが火桶に手や足をあぶる。酒飲みが盃を人に与える。

最後に極めつけを一つ。

ねぶたしと思ひて臥たるに 蚊の細声にわびしげに名のりて 顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ

→眠たいと思って横になっていると、蚊が細い声でやるせなさそうに羽音を立てて、顔の周りを飛び回っている。羽風さえ身の丈に合っていることも大層しゃくにさわる。

以下続く。

きしきしと音を立てる牛車。ものうらやまし、身の上嘆き・・・。訳知り顔。こっそり来る人に啼く犬。長烏帽子を御簾に突き当てて音を出す男。戸を音を立てて開ける男。出しゃばり。最後が蚊の羽音となる。

 

見事な観察であるが、こんなことは和歌には詠まない。

枕草子は清少納言が自分自身の感覚で、身の回りの事柄を鋭く切り取って、 うつくしいもの そうでないものも、自分の感覚に忠実に非常に繊細な表現力で描いている。その結果として現代人が読んでも、よく分かる文章になっている。

 

「コメント」

 

出しゃばりで自己顕示欲の強い人かと思っていたら、自分自身はそういうのが嫌いとは。でも古典の中の人の感覚も現代人と同じと妙に感心する。枕草紙全体を読んでみるか。全体は読んでないので。