230518⑦「方丈記」:偽善の仮面をはぐ

方丈記は枕草子や徒然草とは違う

方丈記は鴨長明58歳の時、1212年に書いた。枕草子、徒然草と並ぶ日本三大随筆と言われるが、これはあまり感心しない。短く纏まった文章を次々と並べていく枕草子や徒然草と違って、方丈記は全体が繋がっている。ある意味では論文のように構成されている。論文みたいと言うと、何を論証しているのだろうかというと、家というのは儚いものだということ。そんな儚い家を建てることに拘るのは止めて、必要最低限の住まいで自由に暮らそうというのがテーマである。

方丈記の冒頭

行く川の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず

淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし

世の中にある 人と陋(すみか)と またかくのごし

という有名な文章である。

骨子は 家 というものの儚さ

これは仏教の基本的な考えである 無常 その考えに依っている。無常というのはあらゆることは変化するということ。

方丈記はそういう無常の論理を抽象的に描いている訳ではない。もっと具体的に、人の住処つまり家が如何に儚いものであるかを描いている。方丈記の前半は長明自身の経験によって、家の儚さを述べている。

普通五大災厄というが、この時代に起きた五つの災害がある。詳しく書いている。

・安元の大火 安元3年1177年 京の1/3が焼失

・辻風(竜巻) 治承4年 1180年  

・遷都 治承4年 福原遷都 1180,年 清盛の命令で家は解体して福原へ 天才ではなく人災ではあるが。

・飢饉 養和元年 1181年 2年続きの飢饉

・地震 元暦2年 1185年 山は崩れ、津波発生 三ケ月余震

この様な数々の経験から長明は、家というのは何かあると壊れてしまう儚いものだという結論を導き出す。こんなに儚いものなのに、大きな家を建てるとか色々と苦労する。実に下らないというのである。ではどうしたらよいか。

長明は小さな家に住むことを提案する

長明は下賀茂神社の神官の家の出身で、跡継ぎになり損ねて小さな家に住み更に出家してしまう。遂には方丈の庵に住む。方丈の庵というのは、丈つまり3m四方、高さ2m。これは簡単に解体して車に乗せてどこへでも運べる。場所が気に入らなければすぐに移転できる。家の為に悩んで暮らすよりも、庵の方が良いではないかという。自然を満喫し、自画自賛する。

当然世間の連中が家を建てるのは、必ずしも自分の為だけではない。妻子の為とか、主君の為、財宝を守るため、牛馬を飼う為などに家を作る。そんな家の為に汗水垂らして働くのでは、何んの為に生きているのだ、本末転倒ではないか。

人間の為の家ではなくて、家の為に人間がいるようではないか。それに対して私の庵は自分の為だけに存在するから、誰に気を遣うこともない。自分の心次第なのだ。自分の心が満足できなければどんな立派な御殿でも仕方がない。逆に小さな庵でも自分が満足できる所なら最高である。私はここに満足している。

たまに都に出ると自分がみすぼらしいと恥ずかしく感じるが、ここに戻ってくると皆があくせく働いてのが哀れに見える。

人間社会から離れて、小さな庵で孤独な生活をする気持ちは、やってみなければその良さは分からないと長明は言う。

 

しかし本心ではコンプレックスを抱えている感は否めないが、言っている事には理がある。しかしもしここで方丈記が終わっていれば、批評としては鋭いけれど一方的な論理を展開した、自己満足な作品ということで終わった。

しかし長明はここで終わらない。方丈の生活を自画自賛した後、長明はハッと我に返ったように反省に入る。

第五段 そもそも一期の月影かたぶきて 余算の山のはに近し たちまちに 三途の闇に向はんとす 何のわざをかかこたむとする 仏の教へ給ふおもむきは 事にふれて執心なかれとなり 今 草庵を愛するも 閑寂に著するみ さはりなるべし いかが 要なき楽しみを述べて あたら 時を過ぐさむ

色々と書いてきたけれど、私の人生の残りは少ない。もうすぐあの世に行かなければならない身ではないか。それなのに何をつまらんことを言っているのだ。

 長明の反省

長明はこの時58歳、当時としては高齢であった。これまでの日本人は年を取ると、来世どうやって極楽浄土に生まれるかということを真剣に考えた。そのためには仏道修行である。そもそも世間を離れて方丈の庵に住むのは、仏道修行の手段だったはずであるで、雅に楽しむ為ではないはずである。

仏の教えは何事にも執着してはいけないということ。だとすれば、私のように方丈の生活に執着するのは間違いである。私は詰まらない楽しみに興じて時間を無駄にしているのではないかと反省する。

先に触れた様に、仏教は無常ということを根底におく。あらゆることは変化してしまうから、今の目の前にあるものに固執してはならないという。その論からすると、立派な家に執着するのも勿論間違いだけど、しかしだからと言って方丈の庵の生活に執着するのも間違いである。自分は方丈の庵の生活のすばらしさに執着し、別の間違いに陥ってしまったのではないだろうか。そういう痛切な反省に入っている部分を読んでみよう。自分自身に問いかけている。

静かなるあか月 このことわり思ひつづけて みづから心に問うひていはく 世をのがれて 山林にまじはるは 心を修めて道を行はむとなり しかるを 汝 すがたは聖人にて 心は濁りに染めり 

「そもそもこうやって世を逃れて山の中の方丈の庵で生活しているのは、雑念を払って仏道修行をする為ではなかったのか。それなのにお前は姿だけは聖人だが、生活の楽しみに耽るばかりで、心の中は濁り切っているではないか。つまりお前は格好ばかりではないか。」

 恰好は維摩居士だけど、中身は周利槃特以下と自省する

自分に対する強烈な批判である。続けて

栖はすなはち 浄明居士の跡をけがせりといへども 保つところは わづかに周利槃特が行にだに及ばず もし これ 貧賎ののみずからなやますか はたまた 妄心のいたりて狂せるか そのとき 心 更に答ふる事なし 只 かたはらに 舌根をやとひて 不請阿弥陀仏三遍申してやみぬ

「お前の住処は浄妙居士の庵の真似事をしているが、仏道修行は周利槃特以下ではないか。これは貧しく卑しい身分として生まれたことが自分を悩ませるのか。はたまた 心が迷った挙句に自分を狂わせたのか。その時 心は何も答えなかった。ただ舌を使って阿弥陀仏の名を二三遍つぶやいただけであった。」

維摩居士(ゆいまこじ) 

維摩経に出てくる、方丈の庵に住んでいた釈迦の在家弟子。病気の時に、見舞いに来た釈迦の弟子の文殊菩薩と様々な問答をした。菩薩たちを言い負かすくらいの学識があったとされる。長明が方丈の庵に住んだのは、元をたどればこの維摩居士の系譜に繋がる。

周利槃特(しゅりはんどく)

釈迦の弟子の一人。釈迦の弟子の中で、最も愚かで頭の悪い人と伝えられる。自分の名前も覚えられなかったので、名前を書いた紙を背負っていたとされる。

 方丈記の結末

つまり恰好だけは賢そうに見せているが、中身はそういう周利槃特以下ではないかというのである。自分を厳しく見るのは、意外に長明の精神は若々しい。人間は年を取ると、どうしても高い理想を忘れて、自分を安易に肯定して仕舞いがちである。

自分で自分を問い詰めた長明は、自ら答えることは出来ず、ただ念仏を唱えただけであったというのが、方丈記の結末である。

この方丈記の結末については様々な解釈があって、今でも研究者によって意見が分かれている。特に不請阿弥陀仏三遍申してやみぬ という言葉が問題で、不請 という言葉の解釈が焦点である。大まかに二つの方向に分かれている。

一つは、自分自身に問い詰められて答えに窮した長明が、そこで阿弥陀仏に全てを託したという解釈。阿弥陀仏は助けを請わない者さえ救ってくれる。だからこんな私でも救ってくれるだろう。迷った自分を投げだして、阿弥陀仏に託したのだという説。この説によると、方丈記というのは最後には結局仏教に救いを求めた作品なのだということになる。

しかしもう一つの説は、自分はやはり雅な生活に未練がある。心から仏道に徹する事が出来ないので、信心する訳ではないが、舌根を借りて口だけ形ばかり念仏を唱えたのだという説である。これだと方丈記というのは、仏教に徹底的に帰依出来なかった長明の苦悩を描いた作品なのだという事になる。

こんな有名な作品でも未だに、解釈が一定しないというどころか、正反対な説が並び立っているのが文学研究の面白さ難しさである。いや困ったところかもしれない。どちらの説をとるにしても、方丈記の魅力は最後にこうして自分を問い詰めている所ではないかと思う。

 方丈記の見方

いい家柄に生まれながら世俗的な栄達を捨てて、自由な生き方で物欲など極限まで切り捨てた生活をする。

仏道修行と雅を両立させた生活を捨て、それを文章に綴る。そこまででも十分に一つの作品として成り立っているが、そこでもう一度自分が辿ってきた道を振り返って、本当に私はこれで良いのかと問い詰め、方丈の庵の中で一人真夜中に自分自身に対して、お前は格好つけているだけで、その外面と内面が全然違っているのではないかと問いただす。

孤独な自問自答である。近頃自分自身へのこうした追及は暗いと言われて、嫌がられそうである。

やはり人間が生きていくうえで、こうした内省、自分の心の中を見つめなおすということは必要だと思う。

本日は方丈記から 汝 すがたは聖人にて 心は濁りに染めり →縮めて言えば お前は格好だけではないか という一言であった。

 

「コメント」

 

一時は後鳥羽上皇の和歌所で将来を嘱望された。下賀茂神社の河合社禰宜を上皇の後押しで願うが一族の反対で頓挫。一時源実朝の歌の師として鎌倉に行くが、受け入れられなかった。これらの事で隠遁生活に入る。まあ言えばいいとこの坊ちゃんがうまくいかなくて引きこもったとも考えられる。また当時こういう生活が流行りでもあったらしい。辛口の見方。