230601⑨「平家物語」:戦士の疲労

今回は平家物語の中から 日ごろは何とも思わぬ鎧も、今日は重いばっかりだ という一言。縮めて言えば 疲れちゃったよ。

平家物語とは

平家物語と言えば平安時代末期からの源平合戦を描いて、鎌倉時代の前期1220年~1230年位に出来たと見られる。よく無常観の文学と言われるが、諸行無常という仏教の教えを、直接説いている部分はごく僅かである。

分類としては軍記物語であるが、男女の愛を描く記事も、風雅な場面、滑稽な場面もあり内容は多様である。

実は平家物語というのは、一人の作者が頭に中に浮かんでくることを、次々と書いていくという形で作られた物語ではない。源平合戦という日本の歴史上かってなかった全国的動乱の後で、様々な体験談とか虚実取り混ぜた物語が発生した。それを集めて擦り合わせて作られたという面がある。作者個人の創作というより、雑誌を編集するイメージに近い面がある。内容がとても多彩であるというのは、そういう事情に拠っている所がある。平家物語の中心になっているのは、平家一門の盛衰であるが、それに関わった平家以外の様々な人々が出てくる。

 木曽義仲

今回源義仲通称木曽義仲の物語を取り上げる。義仲は清和源氏で、源頼朝や義経の従弟に当たる。ただ清和源氏というのは、同じ血筋の中でも殺し合いが多い。義仲の父の河内源氏源義賢(よしたか)を殺したのは、頼朝・義経の異母兄の悪源太義平であった。義仲にとって頼朝・義経は親の仇なのである。武士の世界では親の仇は何より憎い存在である。

義仲は頼朝・義経と仲良く成りようがなかったのである。

義仲は父の義賢が殺された時2歳であった。母が抱いて信濃の木曽に逃げた。中原一族という土地の豪族に育てられる。頼朝が伊豆で挙兵した時、少し遅れて木曽で挙兵する。頼朝は関東から東海、義仲は信濃・北陸を征伐するとして活動する。寿永2年 1183年春、平家は北陸の義仲を攻撃するが、倶利伽羅峠で大敗をする。ここで形勢逆転した義仲は、北陸道を攻め上る。都まで退いた平家はこれを迎え撃つことが出来ず、都落ちをする。大宰府を拠点として立て直しを図ったが、そのためには後白河法皇ら朝廷の主要人物が必要であった。しかし直前に逃げられてしまう。

後白河法皇に逃げられた平家は、政権の正統性に疑問が付いてしまった。一方義仲は平家を追討して都に入ったまでは良かったが、その後大苦労することになる。義仲は木曽育ちで、都での人脈や経験など全くない。義仲を田舎の卑しい武士に過ぎないと見下している都の貴族とどう向き合えばいいか分からなかったのである。結局義仲は後白河が集めた軍勢と戦うことになる。法住寺合戦である。法住寺(ほうじゅうじ)→後白河天皇の御所・法住寺殿。義仲は勝つことは勝ったが、政治的には後白河院と戦ったことが敗北であった。朝敵となったのである。

 義仲の最期

頼朝は義仲を討つ切っ掛けを狙っていた。反逆者、朝敵という口実を与えてしまったのである。頼朝は後白河院から東国支配を認められた。頼朝は義仲と違って、都の公卿たちとの交渉も上手で、戦わずして源氏の棟梁の立場を得た。

頼朝は義仲討伐の軍を都に送る。大将 蒲の冠者 源範頼、そして義経。範頼は都の東側の瀬田から、義経は南側の宇治から攻め入る。義仲も宇治川の合戦で勝利し、梶原景時の子・景季と佐々木高綱との先陣争いで有名である。義経は宇治川を突破して京都に入る。一方義仲勢は今までの勝ち馬に乗った人々の集合体で、形勢が悪くなると脱落が続く。

本来は北陸へ逃げ再起を図るのが自然であるが、東に向かう。それはそこに乳母子(めのとご)の今井兼平がいたからである。乳母子というのは、この時代ある程度身分のある母は自分では子を育てない。子を産むと子は乳母に育てさせて、自分は妻の役目に復帰する。
一方乳母は子に乳をやるのが役目なので、自分の子がいる訳である。二人の子を育てる。子の立場で言えば、主従関係のような兄弟のような濃密な関係で育つことになる。

平家物語にもいろいろな乳母子が出てくるが、とりわけ武士の乳母子が良く出てくる。その中でも固い絆で結ばれているのが、この義仲と兼平である。義仲は京都から東に向かって、琵琶湖の辺りで兼平と出会い、最後の合戦をしようという。

三百騎で六千に挑むのである。そして最後には五騎になってしまう。その中の一人が巴御前である。その時義仲は巴に向かってお前は女だからどこへでも行けと離脱を命じ、巴は落ちていく。義仲と乳母子の兼平の二人になった。

 一言の部分

そこで義仲がもらした言葉が本日の一言である。日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや。いつもは何とも思わないのに、今日は鎧が重く感じられるぞ。今までは重いと感じることはなかったが、今日はそれが重く感じるという。何故なのか。最後の戦いも終わって、為すべきことも終わって主従二騎だけとなった。兼平に対して義仲は大将というよりむしろ弟の甘えた立場になった。大将という責任から解放されたその時に、それまで感じなかった疲れがどっと出てきたということであろう。ただそれはこの場合、達成感を伴う疲れではなくて、自分の人生はこれで終わりだという絶望を伴った疲れであった訳である。兼平も 御身いまだ疲れ給わず。御馬も弱り候はず。何によってか一領の御着背長(おんきせなが)を重うおぼしめし候ふべき。いやあなたはまだ疲れてはいません。馬も弱ってはいません。対象として立派な最期を遂げてください と励ますが これまで逃れ来るは、汝と一緒に死なんと思ふためなり という。

大将としての立派な最期を勧める兼平に対して、義仲は抵抗する。武士は弱い敵、身分の低い者に討たれ首を取られるのを恥とする。もはや再起することも出来ないとすれば、せめて立派に自害して大将としての名誉を保って欲しいというのが兼平の願いである。名誉の世間体の問題である。所が今度は兼平は 御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなきひとの郎党に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曽殿をば、それがし等の討ちたてまつたる なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原に入らせたまへ と申しければ、木曽、 さらば とて粟津の松原へぞ駈けたまふ

貴方様は疲れています。馬も弱っています。その状態では不名誉な最期となります。もうやめてあの松林で自害なさってください。

これはさっき兼平が言ったことと矛盾している。さっきはまだ疲れていない。馬も弱っていないと言っていたのに、今度はお疲れです というのである。この場面は兼平が大人の立場で、子供の様にむずがる義仲を宥めている訳である。義仲はやっとのことで兼平の説得を聞き入れて、近くの松林に駆け込もうとする。しかしそこには田があって、表面には薄く氷が張っていて、義仲の馬はそれに足を取られてしまう。その時義仲は兼平の方を振り返る。

ここで三浦一族の石田次郎兼久という、あまり有名ではない武士の郎党が首を取ってしまう。

これはまさに兼平が恐れた通りの結果となったのである。兼平はこれを見てすぐ自害した。

 義仲の最期への見方

この様な義仲の最期は、決して褒められたものではない。江戸時代の書物には、義仲は大将軍であったのだから、逃げて再起を図るべきだったという批判もある。しかし義仲にはそれが出来なかった。又兼平が願ったような立派な自害も出来なかった。武士としても愚かな最期と言われても仕方なかった。

しかし物語はそんな義仲にとても共感している。平家物語は戦に勝った者を褒め称えるもするが、むしろ敗れたもの、弱い立場に置かれた者に対して強く共感を寄せる作品である。物語は義仲と巴が、義仲と兼平が互いに相手を強く愛していながら、その愛情故にすれ違ってしまう、そんな愛情故の失敗に共感を寄せるのである。

人間は こういう風にしか生きられなかったりするよね という強い共感を持って描いている。

そんな物語だからこそ、疲れ果てた義仲が、いつもは何とも思わない鎧が、今日は重くなってしまった という言葉を漏らす瞬間を描きえたと言えるのではないか。

 

今日は平家物語から 日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや という一言である。

 

「コメント」

義仲の最期 寿永4年 1184年から、50年位たって出来た平家物語。もうこのことは歴史のレベルになっていて、敗者を悼む気分になっていたのかな。日本人は敗者へどこか美を感じる民族なのか。これは日本だけのことではなかろうか。いや中国にだけはありそう