230615⑪「宇治拾遺物語」:ダイエットは難しい

今回は宇治拾遺物語から 巻7 三条中納言水飯の事の さらに御太り直るべきにあらず それじゃ肥満は直らないという話である。ダイエットが難しいのは昔も同じである。昔は肥満はなかったと思う人もいるが、そうでもない。

 肥満の例 「病草紙」の女性 「平家物語」の武士 

「病の草紙」

平安時代から鎌倉時代初期に描かれた「病の草紙」という絵巻物がある。様々な病気が画と文章で描かれているが、霍乱(かくらん)という急性の胃腸障害、眼病、歯槽膿漏とか色々な病の様子が描かれているが、その中に肥満の女性が描写されている。太り過ぎで一人では歩けないのである。借上(かしあげ) 高利貸し の仕事をしている女性で金持ちである。

「平家物語」

備中にいた妹尾次郎兼安という平家方の武士は、倶利伽羅峠で敗れ木曽義仲の捕虜となり義仲に従う。義仲が山陽道を攻めた時に、源氏に叛旗を翻す。しかし義仲にまた敗れ逃げるが、この時問題は息子の小太郎宗康。肥満の為に自分で動けないので、それを助けるために引き返し二人とも討ち死にする。なかなかの名場面とされ、こんな時代にも肥満で動けない武士がいたということになる。

 

 宇治拾遺物語とは説話集である。

この様に平安時代、鎌倉時代にも肥満な人はいたのである。勿論、現代とは比べ物にならない程少なかったであろうが。

前置きはこれくらいにして、今回は「宇治拾遺物語」にあるダイエット失敗の説話について話す。「宇治拾遺物語」というのは、鎌倉時代13世紀の初めに成立したと見られる説話集である。平家物語とほぼ同じ時代で、前回話した幸若舞曲より数百年前に出来たと思われる。説話集の説話とは簡単に言えば短い物語ということである。昔話のようなタイプの物語とは一寸違う。昔話というのは、 昔ある所にお爺さんとお婆さんが・・・ という形で、いつどこで起きた事か分からない。基本的にはこれは事実かどうか分かりませんよという前提で語られるが、説話というのはこれはいつどこでだれがやったことですと言うのをはっきりさせて、これは本当にあったことだという形で語られる。

それは内容が本当に事実だったということを言っているのではなくて、事実だという建前で語られるのである。

説話にはよく教訓が付け加えられることがあるが、教訓を加えるには話が事実でないと説得力がない。

そういう短い説話を集めたのが説話集である。

もっとも一口に説話集といっても色々な作品がある。その中で宇治拾遺物語は説話集としても、面白さを最大の特色とする説話集である。テーマとか教訓とかには余り拘らないで書かれているが、様々な内容の説話を収めた多面的な作品である。

 教科書に出ている宇治拾遺物語 児(ちご)のそら寝

色々と出ているが代表的なのは、12話の「児のそら寝」とされる。僧がかいもち(ぼたもち)を作って食べようとしていた。

児は出来たら食べようと思ったが、出来るまで起きているのも、意地汚いと思われて恥ずかしいと寝たふりをしていた。そして出来たよと呼ばれたが、すぐ返事をして飛びつくとやっぱりがっついているみたいで嫌だと思って、もう一度呼ばれたら起きようと、寝た振りを続けていたら、「寝てるみたいだ、起こしたら可哀そう」と起こしてくれない。呼ばれてからだいぶ時間が経ってから、返事をしたので大勢が笑った。他愛のない話であるが、こういう話があると思うと38話に、画仏師良秀 という人の巻がある。

 画仏師 良秀 家の焼来るを見て悦ぶ事

火事で自分の家が焼けるのを嬉しそうに見ていたという話である。家の中には妻子もいるのになぜ笑っていたかというと、不動明王の後ろで燃えている焔を今まではうまく書けなかった。でも今、家の焼ける焔を見ていて、ああ焔はこういうものだと分かったという話である。これは芥川龍之介の地獄変の原案になっている。

 

 三条中納言、水飯の事

さて本日の主題である。宇治拾遺物語94話に 宇治中納言、水飯の事  という説話がある。実在する 藤原朝成(あさひら) 10世紀の貴族で笛に堪能で、知識人で立派な人であった。博学で中国日本の事を良く知っていて、決断力もあって堂々として非の打ちどころの無い人であったが、一つだけ問題があった。太り過ぎである。体が重くて立ち居振る舞いにも苦しがるほどであったので、薬師の重秀にどうしたらいいかと相談する。

それでは食事の時、冬は湯漬け、夏は水漬けを食べなさいと勧めた。ご飯は現在と違って、この時代では固粥と呼ばれた。普通に食べられるのは、米を蒸したおこわであった。それにお湯とか水をかけたのが湯漬け、水漬けである。

水分で腹を満たせば、カロリ-が減って食べる量が少なくて済むというのは現代のダイエットである。朝成はその通りにしたが、一向に効果が出ないので、もう一度薬師重秀を呼んだ。「お前の云う通りにしたが効き目がない。何がいけないのか一度食事をしている所を見てくれ」という。

そこで重秀が見に行くと、朝成はお付きの侍にいつものように水飯を持って来いと命じる。するとお皿や鉢を乗せたお膳が次々と運ばれてくる。乗せられているのは干した瓜を三寸に切ったものを10切れ、続いて大きな鮎の押しずしが30尾。鮒ずしである。これはおかずである。続いて別の侍が大きな金属製の御櫃を持ってきて、それにはご飯がたっぷり入っている。

そして大きなお椀にご飯を盛って少しだけ水を入れて食べる。

原文 干し瓜三きりばかりに食ひきりて、五つ六つばかり参りぬ。次に鮎を二きりばかりに食ひきりて、五つ六つばかりやすらかに参りぬ。次に水飯を引き寄せて二度ばかり箸をまはし給ふと見る程に、御物みな失()せぬ。

干し瓜を口で一つを三切れに噛み切りながら、五つ六つほど食べた。次に鮎の押しずしを、これも一つを二切れに嚙み切りながら、五六個一気に食べてしまう。→これはおかずである。これから水飯を食べる。朝成はお椀を引き寄せて二回ほど箸を回すと、あっという間に口の中に入れてしまった。更に朝成はお代わりを23度する。御櫃が空っぽになると次のが運ばれてくる。薬師重秀はこれを見てあきれて、「水飯が良いと言ってもこれほど沢山食べるでは、肥満は直らない」

これが今日の一言である。

 

こうして重秀はこれは私の手に負えないと言ってほうほうの態で逃げ帰ってしまう。医者に見放された朝成は、その後も太り続けて相撲取りの様であったという。

 この話は有名で今昔物語、古今著聞集にも書かれている

この話は有名だったと見えて、宇治拾遺物語の他に「今昔物語」巻28とか、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)にもほぼ同じ話が出てくる。どの作品も同じ様に描いているが、これは誇張した描き方であって朝成が本当にこんなに沢山食べたかどうかはよく分からない。

私達がこの話から学べる所もあると思う。薬師重秀にしてみれば、カロリ-をある程度減らす方法として、水飯を推奨したのであるが、薬師としてはそういう事しかできない。朝成は一寸水をかけたので、それで薬師の指示は守ったと言うつもりなのである。必要なのは食事全体の分量を減らすこと、食事の仕方を根本的に変えねばならなかったのである。

しかしこの生活習慣を根本的に変えるということが、誰にとっても難しいのである。これは肥満に限ったことではなくて、生活習慣による健康問題を抱えている人の殆どは、出来ることなら基本的には今の生活をそのまま維持しながら、一部を少し変えるだけでなんとかならないかと思っている。

 藤原朝成の違った一面 怨霊となる

そういう問題に関し、この説話についてもう少し想像を広げて見ることにする。今日取り上げた藤原朝成は、この説話だけ見ていると、ただの呑気な太ったおじさんみたいに見えるが、実はそうではなくて中々激しい性格の人物だったようでもある。藤原伊尹(これただ・これまさ) 後に摂政になる と官職を争って敗れ、伊尹とその子孫に祟る怨霊となったとされる逸話が多くの書物に見えている。例えば「大鏡」によれば朝成は伊尹と仲が悪くなってしまった。所がその後、ふとしたことで伊尹に失礼なことをしてしまった。それでお詫びに行くが家の中に入れて貰えなかった。夏の暑い最中一日中待たされて、夜になったので笏(しゃく)を握って立ち上がろうとしたら、笏が折れてしまった。

折れる程強く握っていたのであろう。激しい怒りであろう。そして憎しみに燃えた朝成は、伊尹の一族を絶滅させると誓って死んで怨霊となったと言われた。鎌倉時代の説話集「古事談」では少しスト-リ-が違うが、朝成が伊尹に恥をかかされて退出する時に、怒りの余り笏を牛車の中に投げ込んだら、笏が破裂したとある。

これにも後に怨霊になったと書かれている。朝成は大食漢だった話も有名だが、怨霊になった話の方がより有名である。

 

朝成のこの二つの話を結び付けていいのかどうか分からないが、もし結び付けて考えると、薬師重秀は本当に朝成に生活習慣の抜本的な改善を指導すべきだったが、この人に厳しい指導をすると、どんなトバッチリが飛んでくるかも知れない。それでそういう厳しいことは出来なかったのだという読み方もできるかも知れない。

もしそんな風に考えるならば、肥満を治すのもとても難しい事とも思える。

今日は宇治拾遺物語から それでは肥満は直らない という一言である。

 

「コメント」

こういう説話集とか昔話などは、当時の生活と人となりを特徴的に捉えて、とても面白いのかも知れない。場面によっては通俗的になって文学にはならないのかもしれないが。学者も大変だ、色々読まねばならない。