2404011②「道とは何かと問うてもよいのか」

老子と荘子

道家思想の代表的テキストとして「老子荘子(そうじ)がある。老子は老子であるが、荘子は人名の時は荘子(そうし)と言って書名の時は荘子(そうじ)という。何でかというと「論語」の中に出てくる(そう)() 吾日に三省す 人の為に測りて忠ならざるか 朋友と交りて 信ならざりるか 習わさせるを伝うるか という偉大な人であるが、その人と混同するのを避けて、荘子(そうじ)と濁るのである。

老子荘子というのが、老荘思想呼ばれる様に道家の代表的な二人の思想家である。

一般的な傾向として、老子というのは前回言ったように、哲学的というか、目に見えないものを何とか言葉で語ろうとする所がある。それに対して荘子の方はお話で語るのである。説話である。例えば 夢に胡蝶になる というのは聞いたことはあると思うが、荘子が夢の中で蝶になって楽しそうに舞い踊っていた。目が覚めて見たら蝶ではなかった。何か自分は夢の中で蝶になっていたような気になっていたが、ひょっとすると蝶々が、今荘子になっている夢を見ているのではないか。こういう事を書いているのである。これはなかなか深くて、色々な意味で深くて、例えば聞いている皆さんは人間で

老子の話を聞いていると思っているだろうが、実は蝶々が人間になってこの話を聞いている。そうではないと言うならばそうではないことを証明して見るべきである。これは難しい。

この話をしていると老子から離れ、荘子の話になっていくので自粛するが、話で荘子というテキストは進んでいくが、老子はこういう物の見方だよね、こういう考え方をしようよという風に、割と遠慮なく頭で考えて見ましょうと言う姿勢である。そんなに難しくはない、本当は難しいのかもしれないけれども、私は余り難しいことは分からないので、言い方は確かに哲学的だけれども、普通の頭で普通に考えて分るように言ってくれてるなと思う。皆さんと一緒に考えて行きたい。

老子

まず道である。道の道とす()きは常の道に(あら) これは最初の言葉である。これに続いて 名の名づくべきは常の名に非ず と続く。言葉の問題である。名 というのは名付けるという事である。
実は今回は 道 について話すが次回は 言葉 について話す。これが道だと言えるようなものは、常の道パーマネント、普遍的な、絶対変わらないような本物の道ではないというのである。すごく変なことを言われた様な気持ちになるかも知れないが、では本当の道はこれだと言えないのかという事になる。その通りである。これが道と言えるようなものは道ではない。道とはこれが道だとは言えないようなものなのか。はいそうです。このことを今日はゆっくり考えて行く。

その前に道というものは、どう考えられていたかという事を紹介しよう。

例えば老子という本を読もうと思ったら、手軽に文庫本が出ている。その全ての本が道をこう理解している。

道というのは何かというと、この世の中を生み出している根源である。宇宙の真の実在である。この世界の創造主である。絶対的超越的な一者である。こういう捉え方をしている。要するにそういう風に捉えると、何か人間離れしたというかもっと浮世離れした神様みたいなそういうものとしてこの道を捉えて行くという、非常に神秘的な捉え方である。偉い先生方は皆さんそう仰っているし、2500年以上前のテキストであるが、ずっとそういう風に読まれてきた。

そうなるかもしれないが、私は違うというかそういう風には読みたくない。では道とは何なのかという事である。

道の道とす()きは常の道に(あら)  これが道だと言えてしまうようなものは、本当の道ではないというが、私が生きて居る上でこれがそれだという一々分かっていないけれども、そうなってしまっているものは結構ある。例えば論理。

論理というと難しく聞こえるかもしれないが、私は今しゃべっているけれども皆さんが聞いて、ああなる程とか、ちがうなと理解してもらえるとすれば、それは何かというと、私が論理的にしゃべっているからである。論理というものを構えてしゃべっているから一応通じるのであるが、論理とは何かという事をいちいち説明しようとすると大変なことになる。例えば物を眺める、見るという時にも窓から庭を見る。私が見ている訳だが、だから木が生えてるな、岩があるなと見える訳であるが、眺めている自分そのものは鏡にでも写さない限り眺められてない。でも自分がいるから眺めている訳である。でも私にそういう風な庭が見えていることが、その事が見て居る私がいることを示している。Perspective という。一々意識していないけれども、従っているのである。論理もそうである。意識しないけれども論理的にしゃべっている。そういう風に何かをやっている時に一々意識しないけれども、従ってしまっているものは結構ある。例えば言葉とか空間とか時間。皆さんこうしてしゃべっていても、もう何分間かしゃべっている訳だけど時間が経っている。じゃあ、時間とは何ですかと言われたら、多分今の哲学でもきっちりと説明できてないと思う。例えば私は東京でしゃべっている。沖縄で聞いている人。離れている訳である。距離がある。距離って何ですかと言われてもなかなか説明できない。説明できないけれどもそれに従っているというのが沢山ある。だからそういうものを十羽一絡げに言うと、いちいち殊更意識に上ることはないけれど、それこそ自然に従ってしまっている様なこの世の中の一般的な性格というか、そうなっているよねというもの、こういうものが一応自然の法則という風にとりあえず呼んでおこうと思う。自然の法則というものは色々あるが、例えば私は詳しくはないが、物理なんかだとエントロピ-増大の法則というのがあったりする。エネルギ-保存の法則みたいなもの。否応なく従っているのである。言われなければ意識もしないものである。必ずエントロピ-増大の法則に従って、今ここにいるのである。必ずエネルギ保存の法則に従ってここにいるのである。例えば私が物を落とせば下に落ちる。少なくとも地球上にいる限り、万有引力に従って浮かしておこうと思っても浮かない。こういう風に否応なく従ってしまっている自然の法則というものがある。道とはそういうものではないか。

だとすれば、これがエントロピ-増加の法則とか、あっちに浮かんでいるのがエネルギー保存の法則とかを意識するのは無理である。だから 道の道とす()きは常の道に(あら)ず というのはその通りだと思う。

我々は否応なく道に従ってしまっている訳であるが、従うという言葉であるが、普通に使う言葉である。従うという言葉には、基本的に二種類ある。例えば法律に従うみたいな言い方をする。法律の場合は従うこともあれば、従わないこともある。従わないと罰せられたりするが、自然の法則の場合は従わないという事はあり得ない。もっと言うとどうしたら従わないことになるのかすら分からない。自然科学的な発想になると、法律に従わないものがいても、法律が成り立たなくなることはない。でも自然の法則の場合は違う。自然の法則に従わない現象が一つでもあれば、自然の法則を変えなければならない。自然科学の法則はそういうものである。何でこういう事を言うかというと、老子の言う道というのがこういう従わないという事があり得ないような法則だとすると、非常に自然科学者的に態度なのである。だからあとずっと聞いていただければ納得していただけると思うが、訳の分からない神秘的なことを余り言わないのである。意外や意外である。だからそういう事を考えるにつけても、道というものを宇宙の根源、万物の創造主みたいに捉えるのは、それは宗教ならともかく、老子のやり方としてはふさわしくない。因みに宗教とは何かというと、信じるという事が大事なのである。
信じるというのは理屈ではない訳で、優れた宗教的テキストは沢山あるが、宗教書を読むような気持で老子を読もうとすると、老子の本当に言いたかったことがうまく伝わらない恐れがある。例えば自然の法則みたいなものを、どういう風にどうとらえたらいいですかというものであるが、例えば原因があるから結果があるという、因果法則というものがある。原因があるから結果があると考えたくなるが、老子は本当にそういう風に捉えることが正しいかみたいなことを言っている。

因果関係というのはとりあえずはある。我々はそういうものはあると思って生きているけれども、煎じ詰めて考えて行くと、絶対にあるとは言えないのではないかという気がしてくる。

 交通事故の例

例えば誰かが車を運転していて、交通事故を起こした。道を歩いていたお婆さんが引かれて怪我をした。警察で調べた所、時速50kmの制限を8kmで走っていた。おまけに酒を飲んでいたから、スピ-ト違反、飲酒運転が原因で、事故という結果が生まれてしまった。これは因果法則的に説明するとそうなる。でも法則というのは、なる時もあるがならない時もあるというのは法則と呼ばない。80kmで運転していたら必ず事故を起こしてしまう、飲酒運転をしたら必ず事故を起こしてしまうことが法則であるが、そういう事はあり得ない。それでは何でこの因果法則というものを私たちは考えてしまうのかというと、そういうスト-リ-を作っているのである。どちらかというと望ましくない結果があった時に、望ましくない結果を合理的に納得するためにさかのぼってスト-リ-を作って、これが原因ではないかとしているのである。そうするととても分かり易くなって納得できるが、そういう事を言いだすと原因はいくらでも生まれてきてしまう。その時ボォとして他のことを考えていたこともあるかも知れない。いくらでも後付けで原因は出て来てしまう。

だから今何を言っているかというと、因果法則的なものと、自然法則としての道は少し毛色がちがう。例えばそういう法則性があるとかないとかいう事を考える時に、言葉としてあるとかないとかと言うことを使う。よく分かっているのだけど。

あるとかないとかはどういうことなのみたいなことも老子は考えている。例えば自然の法則と言えば、あるとかないとかという物とは一寸性質が違う。

  勇気がある の例 儒家と道家

じゃああの人は勇気があるという言い方をするとする。そうすると何か勇気というものがあって、そういうものをあの人が持っているみたいに捉えると、そんな勇気なんてものはありますかという事になる。では勇気があるかとかないとかと言うのは、どういう時に私たちは使うのかというと、例えば、道を歩いていて、おばあさんが柄の良くない若者に絡まれている時に助けてあげるかどうかである。助けてあげるのは勇気がある。論語の中に 義を見て ()さざるは 勇なきなり というのが出てくる。これは正義であり、助けてあげないのは勇気がないからである。確かにおばあさんが不良に絡まれている時に、助けてあげれば勇気があると言っても良い。でもそんな場面に一度も出合わず死んでいった人は、勇気があったのかなかったのか。その人は勇気を出さなくてはならない場面に、一度も遭遇しなかったのである。そうすると勇気があるとかないとか言うのはどういうことなのだろう。つまり前回言ったように、儒家的な発想だと、人としてこういう風な場面に出合ったら、こういう風に生きるのが人間らしい生き方であって、そうあるべきであるという。現実にその通りだと思う

それに対して老子の場合は、勇気があるってどういう事なのだろうみたいなことを考えるのである。今一般的に話しているが、勇気があるとかないとか、どうしてそういうふうに決めて考えることになるのか。ないとかあるとかいうのは、そんな簡単な問題なのかという事を、老子はこれから至る所で語っている。

むしろないほうが、あるという事になるケ-スも沢山あるのではないかとも。強い・弱い、こういう時にこうするのは弱い、こういう時にこうするのは強い、そういう風に思いたくなるのは分かるけど、強さ弱さとは決まりきったものが本当にあるのか。弱いから強いみたいなこともあるのじゃないかと老子は言う。少し先回りして具体的なことを言うと、例えば老子がこういうものに注目した方が良いよというものに、女性・赤ちゃん・、水みたいなものがあったりするが、女性の持つ柔らかさ、やさしさ。これは男性的な強さみたいなものと、対極的な物であって、男は強い、女は弱いと思うかもしれないが、本当にそうなのかという事である。例えば赤ちゃん、とても弱い、でも赤ちゃんは本当に弱いのか、赤ちゃんが泣いているのを見たら、強い大人はほって置けなくて、どうしたのと構ってしまうではないか。本当に弱いのか。

強いとか弱いとはどういうことかと、老子は問いかけてくる。一貫して物事を一面的に、一つの物の見方で見るというのはどうなのでしょうねという事を言っている。

こういう時には、こうしなければいけない。義を見て為さざるは勇なきなり 、これはとても大事であるが、その考え方に捉われていると、ああ助けることが出来なかった、私は勇気がない人間だ、駄目な人間だ、こんな人間は生きているに値しない、みたいにならないまでも、そういう考え方に捉われてしまうと、自由でなくなる。だからそういう事はやらなくていいんだという事ではなくて、ものの見方をもっと柔軟にして、色々な捉え方をすると、生き方が広く豊なものになるのではないかと言っているのである。

 言葉

どうしても世の中を限定的にきっちりとわきまえて、生きて行こうとする時に、一番使うのが言葉である。

老子  道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。

名 というのは言葉のことである。言葉というのは何かに名前を付けることから始まる。だから言葉もこれは言葉だというのは、言葉ではない。言葉と言うのは何か。
道については今回話したつもりである。これからも重ねて出てくるが、この世の中に存在するものがすべて否応なく、意識することなく、従わないという在り方があり得ない様な自然の法則が道である。だから、ハイこれが道ですよと言う風に名指すことは出来ないが、我々はそれに従っている。

それともう一つ、言葉というものを出してきている。言葉というものを常に重視する。我々は言葉をしゃべっているが、言葉って何だろう。言葉について考えていると色々と面白いことが浮かんでくる。人間は言葉をしゃべるが、人間以外の動物が言葉をしゃべっているかどうか。動物学者がどういうか分からないが、言葉的なものをしゃべる賢い生き物もいるかもしれないが、基本的には人間が人間として文化的な生活を営むことが出来ているという事は、言葉の働きが大きい。言葉というのは人間にとって、きわめて重要である。人間が人間である上で、一番かどうか分からないが、大切なものであるという事を次回は話す。

 

「コメント」

 

一応書いたが、講師の言っていることはよく分からない。元々分からない事なのか、講師の話し方が悪いのか、理解力がないのか。恐らくこの全部であろう。これが続くと思うとうんざりだが、やるしかないか。