私の日本語辞典「万葉語の由来をさぐる」                     講師  多田 一臣(東京大学名誉教授)

                                                聞き手 秋山和平アナウンサ-

151010② 万葉語の由来をさぐる

「秋山」

万葉語誌を取り上げる背景となる古代の人々の世界観と言うか古代の人々がどのような考え方で言葉と向き合っていたのか。先生の研究の部分的な所であるが、ご紹介頂いて万葉集と言うものの話から、それが歴史的認識の中で古事記などと関係があるという話をして頂いた。今回から具体的に一つ一つの言葉を取り上げて著書「万葉語誌」の中の先生が

選んだ言葉を中心にお考えを聞きたい。前回の続きとして、万葉集は4千数百首の歌があるが、「万葉語誌」では150の言葉を選んである。万葉集では言葉数として相当な数の語があるのでしょうね。

「多田」

どれほどの言葉が使われているのか私は数えてないが、150に絞ったというのは、本当は大事な言葉はもっとあるが

-の関係でこうなった。

「秋山」

万葉語の辞典を作りたいと言われているが。

「多田」

歌謡集と言うのは他の言葉と違うので万葉集なら万葉集の言葉の辞典と言うのが無ければならない と言う風に考えた。作品ごとに言葉は偏って使われるので普通の辞書と言うのは全てを対等に置いて眺めて、説明することになっているが。

やはり歌言葉と言うのは特殊だし特に万葉集の場合はその特殊性が際立っている。

万葉語の辞典があってもいい筈と思っている。ただいきなり作るのは難しいので取りあえず150語くらいでやってみようと思っている。

「秋山」

本の中でも語誌という考え方で社会的背景とか当時の文化的な物を入れて書けば、一つの語で相当の分量になりませんか。普通の辞書の様に2~3行と言う訳にはいかないでしょうね。

「多田」

一番目の意味はこう、二番目の意味はこうと簡単に書けないので必然的に文章化していかなければならない。古代の人々は同じ言葉で色々な意味を表すので、統一的に眺める必要もある。

「秋山」

そこで先生が150語を選んで万葉語誌研究会を作って共同で研究され又分担して執筆されたようであるが、先生が

直接お書きになった者でも45語位あったと伺っている。その中でこの講義に関連するものを挙げて紹介してください。

著書には、アイウエオと言うと「赤」「遊び」「「あら」「青」、「いぶせし」、「うつくし」「うるわし」「・・・。

「秋山」

「赤」 京大の佐竹先生は、日本語の色は四種類だと言われた。「赤」と「黒」と、「青」と「白」それぞれが対立するのだと。

これには全く同感する。例えば赤は黒の対立語という事。赤は明るいの赤を指し、黒は暗いの黒となる。色で言うとこう

いうことになるが、使われ方から見ると面白い事がある。

赤と言うのは何か霊的なもの、それが宿っているものが赤なのだという、それが赤の本来の意味であろうと思う。霊的なものが宿ると赤くなるのだと。考えてみると血液も赤い。そこには生命力のようなものが宿っているのだ。そうすると赤は

霊的なものをシンボライズしている。赤と言うのはそういう意味合いを持っている。例えば巫女の袴、鳥居。

「秋山」

現代の我々の意識では魔除けとか言う事を言うが、それ以前にも考え方として赤と言う中に霊的なものを感じていたのですね。反対が黒と言う風に書いてあるが、我々は黒と言うとすぐ白を連想するが、赤と黒が対比になるわけですね。

「多田」

対比の関係と言うのは色々な形があるが、根本は赤に対しては黒、青に対しては白が根本だ。

「秋山」

白と青と言うのはよく分かる。例えば北原白秋とか、青春とか、青山とか。

「多田」

それは中国の五行思想から来ているので相撲の赤房・青房・白房とか、の対比関係は五行思想である。

*五行思想

五行思想とは古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は5種類の元素からなるという説である。

木→青・東・春 火→紅・南・夏 土→黄 金→白・西・秋 水→黒・北・冬

(赤猪子の故事)   万葉集

赤い衣を着た女は巫女的な性格を持っているという。雄略天皇が三輪川に行くと衣を洗う少女に会う。名を聞くと「引田部の(あか)猪子(いこ)」という。「私が召すので嫁に行かず待て」という。そして80年経った。老婆になったこの女は雄略を訪ねる。

天皇は忘れていたが、憐れんで歌二首を送り、土産を持たせて帰した。

この話も赤と言う名に巫女的な性格を持っているので天皇は召したのである。それにしても酷い話で、不思議なのは天皇がちっとも年を取っていないのである。またその歌も考えるとふざけた歌で「若い時に一緒に寝ていれば良かった」と言うもの。

「秋山」

赤から始まったが、もう一つ興味があるのは「遊び」と言う言葉。昔のちゃんとした人は遊ばなければダメと言う思想。

「多田」

昔、TVのコマ-シャルに「大統領の様に働き王様の様に遊べ」というのがあって感心した。大統領と王様の在り方の違いをよく表している。つまり大統領は普通の人間だから一生懸命に働かなければならない。所が王様は遊ぶことが仕事なのだと。

「秋山」

この事で先生が紹介しているのは聖武天皇の歌。万葉集973.

大意「私が治める国の使いとして節度使の卿等が、出向いたならば安心して私は遊んでいよう。腕組して私はいよう。」

ちゃんと皆が仕事をしてくれるので私は懐手(ふところで)をして遊んでいよう、自分が手を出すようになったら大変な事態だと言っている。

「多田」

古代の天皇は懐手していることが大事。これが遊ぶという事で手を出すようになったらこれは世の中が乱れていて一大事なのである。つまり遊ぶという事は元々神の振る舞いを意味するので天皇貴族たちは遊ぶのが本来の役割と考えて

いた。要するに普通の人は一生懸命に働いて自分たちは神なので、遊んでいるのは世の中が治まっている証拠という

世界観があった。

「秋山」

現代では考えられないことですね。

「多田」

神と言うのが大事で、この世の中を成り立たせる根拠は神なのであるという思想。この世の中を秩序付けるための根拠、それが神ならば地上の神として天皇や貴族が作られたのである。

「秋山」

そういう思想は下まで理解されていたのか。

「多田」

それはそうであったろう。古代が神を必要とした事はとても重要なことで、神をちゃんと祀らないと祟りがあって自分たちの生活が成り立たない。神は何も救ってはくれないが、ちゃんと祀らないと色々な悪さをして生活を脅かす存在なのである。

災害、疫病は神の祟り、怒りと考えられていた。これは現代と違って生活が厳しければ厳しいほど、貧しければ貧しいほどそうなる。古代の日本では神を作らないと世の中の秩序が成り立たなかった。

「秋山」

「赤」「遊び」と言う所まで来た。「うつくし」と「うるわし」の関係はどうなのですか。

「多田」

「うるわし」と言うのは面白い言葉で、欠点は何もない、きちんと整った理想の状態これが「うるわし」なのである。要するに細かなところまで完璧に整っていること。本来人間はと言うのは不完全だから「うるわしい」という風に考えられる存在は神である。だから神は「うるわし」と表現される。

「秋山」

それに比べると「うつくし」と言うのは少しは人間的なのか。

「多田」

相手を慈しんでやりたいとか、そういう気持ちを抱かせるような対象、それが「うつくし」である。「うつくし」と「うるわし」は違う。

「秋山」

そこで「愛」と言う字を書いて「し」と付けた時に「うつくし」か「うるわし」かと言うので考え方に違いが生じて来るのか。

「多田」

そうだ。これは万葉集が漢字(万葉仮名)ばかりで書いてあるので、漢字をどう読むのかと言うのが大問題なのである。

特に「愛」と言う文字は「うつくし」とも「うるわし」とも読める。そうすると歌全体をどう解釈するか、どういう風に解釈するかそれで言葉の読み方を決めるしかない。だから研究者によって読み方が違ってしまう事になる。

「秋山」

そこが万葉集の難しい所ですね。

「多田」

私が対象としている分野は全部漢字なのでそこが大変。特に和歌は和語、日本語の世界なので結局和語に直さねばならない。万葉集の場合、現在でも解釈の意見が対立していて決着がついていないものが多数ある。

万葉集全体の中から表現を参考にしながら、この辺はこんな風に読んでいかなければならないと、そうやって読み方を

決めていくしかない。まだ読み方が決まらないというものが数多く残っている。

「秋山」

「いぶせし」を一言で言うとどうなりますか。

「多田」

もやもやした感じという事になるが、これは昔折口信夫か山本健吉だったかが、性的な欲求不満を表すと言った。これがいい解釈だと思う。「いぶかしい」とかそんな言葉とつながっているので何かぼんやりとしてはっきりしないというのが

根本的な意味だけど、それが人間の心に当てはめられた場合、特に恋の歌に用いられた場合そうなる。例えば雨が降ると男は女の下に通えないので長雨の時期になると何日も会えないと、なんだか鬱々もやもやして、そういう時の気分が「いぶせし」になるのではないか。

*折口信夫

  国文学者・歌人。国学院大学教授。歌人としては釈 超空と言う名。

*山本健吉

 文芸評論家。折口信夫の弟子。

 

「コメント」

われわれが通常読むのはいわゆる「読み下し文」で漢字混じりか仮名文である。これでも意味がなかなか分かりづらいのに原文ではとてもとても。解説本まで見ながらやっと理解しているのに。万葉集の解釈を始めてやったのは、いわゆる梨壺の五人。この人たちの苦労は大変だったであろうと他人事ながらそう思う。

おなじ日本語なのに時代でどれほど意味が違ってきたのかと思う。

*梨壺の五人

951年梨壺に置かれた和歌所の五人。後撰集の選集と万葉集の付訓に当たった。