歴史再発見「黄金」から見直す日本史                 加藤 廣 

 

⑧ 「天下統一と金 戦国時代から織豊時代」   13年5月21日() 20時30分~ 

応仁元年に足利将軍家の相続問題をキッカケとして東軍細川勝元と西軍山名宗全が各地の守護地頭を巻き込んで起きた大乱。ここから戦国時代の幕開け。日野富子→ 八代足利義政の妻、当初子がなかったので養子(足利義視)をとったら子ができたのでこの子を将軍にしようと画策し応仁の乱の端緒を作った。将軍継嗣問題。

 

ここで各地の有力大名の天下争いになる。その一番手が織田信長。

 

「織田信長が有力になった理由」  当時 武田・上杉・伊達等実力者がいた

・日本の中心地区にいる地の利 

・太平洋側で雪がない→軍の機動性 

・尾張地方は大河(木曽川・長良川・揖斐川)が多く毎年洪水被害で農耕適地でなかった。

この為

 (経済の基礎は米以外の蚕にあって、商品経済が進行していた) 

  (領民に土地への執着心が薄い→一所懸命がない→兵農分離が容易)

  (以上により兵にもののふの心がなく、弱兵。→武田、上杉への対抗上真っ先に鉄砲の導入を行った)

・商品経済の進行により、経済的には豊か、絹織物の消費地京都との関係が密

・灰吹法が考案され金の冶金方法が急速に進展→金山を押さえれば金の入手が容易になった

  

「織田信長の問題点」

・部下の使い方が恐ろしく下手  恐怖心のみで使った

 

リーダーの条件は ①利 ②情 ③カリスマ性 この②が全くなかった。「器量には優れるが武田信玄の智に及ばず、上杉謙信の勇に及ばず」と言われる。

 

  ・この人位、部下に裏切られた人はいない。→最後に光秀に討たれた。

 

 

二番手が秀吉。この人は強運の持ち主。攻略の楽な山陽道の担当、光秀は山城続きの山陰道で大苦労する。

 

また山陽道で金山を抑え、金を蓄えていた。これが光秀討伐の「山崎の合戦」に駆けつけるための「中国大返し」に役立った。これは日本史上屈指の強行軍として知られ、10万の兵が10日で200kmを駆け抜けて勝利した。

 

実は秀吉は既に光秀による信長謀反を知っていて、準備していたのでは。これは大名茶入として知られる「付藻茄子」が足利義満→信長→秀吉→家康と移っていくが、本来本能寺で燃え尽きたはずなのに火事にあった形跡がない。

  

この辺の事情は 加藤著三部作「信長の棺」「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」に詳しい。