歴史再発見「黄金」から見直す日本史                  加藤 廣 

 

⑪「開国を巡って動いた金 江戸時代(三)」     13年6月11日() 20時30分~ 

徳川幕府は双子の赤字(財政赤字・貿易赤字)に悩まされ続ける。これは放漫財政と金銀交換比率・輸入過多。

 

金の流失を止めるべく銅・海産物の輸出などに努めるが焼け石に水。商品経済が盛んになり商人は繁栄するが、米経済の幕府・大名・武士は困窮。商人から先のコメを担保に56割の金利で借金。財政の火達磨。

 

ここでこれを見かねたオランダ商館の医師ケンペル(ドイツ人)が、貿易赤字を防止するために「貿易をやめたら」と進言。

 

「日本誌」を書く、これが幕末再版され(異人恐怖伝)、公家、薩長を中心とした人達の攘夷論の根拠となっていく。

 

江戸幕府はこれを容れて、一番恐れていたキリシタン禁止を目的として中国・オランダ以外の外国人の渡来・貿易と日本人の海外渡航を禁じた。

  

    家康は鎖国主義者ではなかった。理由は以下。しかし確たる資料はなく講師の推論が大部分。

 

資料によると関ヶ原戦後、家康は九鬼水軍の統領を駿河城に招いて今後の海外戦略を協議した。 

 

・駿河城の港は不適なので静岡と清水を中心として大軍港を作る。ここから太平洋に出て行く。

ここに新城を作る(河野辺城)  この城の大将を九鬼氏とする。

・シャムの山田長政と三人で海外戦略を練る。

・経済問題もあるが、家康が一番恐れていたのはキリシタンの進出。

・この階段の1年後、家康は死去。この話はこれっきりとなる。

 

    その後の幕府の鎖国が進むのは、家康以後。ケンペルのアドバイスが大きく影響したと思われる。 

    ケンペルの「日本誌」の要旨  かなり義憤に駆られている部分もある。 

・当時オランダは幕府の金銀交換比率を利用して大儲けしたことを憤慨している。

・日本の産業は未熟なのでこのままでは日本は貿易で壊滅する。

 

    ケンペル「日本史」の影響

・幕府の鎖国政策の強化

・幕末の尊王攘夷論の論理的根拠

 

    幕末の尊王攘夷論

・列強の日本進出で後進国日本の産業は開国によって嬲りものにされていくという恐怖 これと尊王倒幕が結びつく。

   本来攘夷と倒幕は結びつかないはずだが、薩長は徳川憎しでこの論となった。

・またインド中国が英国を中心とする列強に蹂躙されたのを知っていた。特に開明者の島津斉彬。

・ところが徳川を倒すと彼らはすぐ開国派に転ずる。開国して急速な先進文明の吸収なくして世界と渡り合えないことを知ったから。この象徴がインドの織物業が英国ランカシャ-の機械織物に蹂躙されたこと。このため独立の父、ガンジ-は常に織物機をそばに置いてこのことを忘れないようにした。インドの国旗のシンボルは織物機械。

 

    明治維新

・薩長は当初江戸は焼き払うとの方針であったが、幕府が仏から500万ドルの借入金で作った新鋭造船所が惜しくなり

 焼き払いを中止。西郷-中岡会談で「焼き討ち中止」は有り得ない。

・新政府は天皇を江戸に連れて行くことにするが、公家始め京都人は猛反発。これをなだめるために薩長は京都に大金を渡す。この金で京都は日本最初の市電を作り、琵琶湖疎水での発電事業を起こす。このことが爾後、京都に先進産業が興隆するきっかけである。

・薩長は徳川との戦いで戦費不足となり、大阪の鴻池、三井等が借金。これが後の腐れ縁を生む。