191029⑤「女帝の登場と王権継承争い~7世紀の古代王権(1)

「推古天皇」

29代欽明天皇の皇女で、30代敏達天皇の皇后。31代用明天皇、32代崇峻天皇は兄弟。額田部皇女、炊屋姫とも。

崇峻天皇暗殺の後の、後継天皇候補には竹田皇子(敏達の息子・実子)押坂彦人大兄皇子(敏達の別の皇后の子)、聖徳太子がいた。押坂彦人大兄皇子擁立論が、群臣の中で有力となったので、これを封じ実子を次の候補とするべく即位をした。

(初めての女帝の誕生の理由)

・欽明の孫達が候補であったが、若すぎた。

・有力候補の押坂彦人大兄は、蘇我馬子と敏達皇太后(推古天皇)の反対派が担ぎ、不都合。

・明晰で執政能力もあるとして、群臣から推挙された。

・敏達皇后なので、今までの皇位争いを防げる。

・実子 竹田皇子への中継ぎとして、即位を決意。しかし、竹田皇子は早逝。

「推古の後継問題」 →舒明天皇

36年間続いた。崩御まで後継者を明らかにしなかった。後継者を大臣 蘇我蝦夷は、遺言を示して

群臣に諮る。候補は田村皇子と山背大兄皇子。結局は蝦夷の推す田村皇子(舒明天皇)に決定。

山背大兄は不満を持つ。

「皇極女帝の誕生」 

舒明天皇崩御で、後継が決まっていなかったので、皇后が即位。皇極天皇の誕生。

「乙巳の変後の天皇」 孝徳天皇

645年乙巳の変(大化改新)で、中大兄に蘇我一族は滅亡させられる。皇極は長子・中大兄に即位させようとしたが、中臣鎌足が助言。年長者の伯父(軽皇子→孝徳天皇)、古人大兄(異母兄弟)がいるので辞退すべきと。最大豪族蘇我氏の滅亡で、天皇の権威は増大。皇極天皇・中大兄の意向で、

軽皇子が孝徳天皇となる。

「以後の皇位継承」

これまでは群臣が後継者を決定してきたが、以後天皇の意志によることなる。皇極は、初めての生前譲位を行った。皇極→孝徳。

 

「コメント」

女帝即位には、背景・政治情勢があるのだ。豪族支配から、天皇の意志への変化の時代が、6世紀から7世紀なのだ。