191105⑥「女帝の登場と王権継承争い~7世紀の古代王権(2)

「天智天皇の後継者は誰か、大海人皇子の皇位継承は」

7世紀の天智天武の頃から皇位継承で、母の出身が条件の一つになってくる。基本的には、皇族の出身。天智・天武天皇の母は、皇極・斉明天皇で文句なし。しかし天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)は、本来大兄(皇太子)にはなりえない。同母の長男が大兄となるので、本来皇位継承は困難。異母弟の長子が有力となる。

・しかしながら、実力者で人気もあった大海人皇子を兄天智天皇は、警戒して自分の娘4人を与えた。

・天智の正妻には男子がおらず、男子(大友皇子)は身分の低い地方豪族の娘を母としていた。

 大友皇子(弘文天皇、川島皇子、志貴皇子・・・→天智天皇の後継者がいない状態であった。

・天智天皇の死の床で、大海人皇子は「天智天皇の娘 倭姫王を女帝として、大友皇子を摂政とする

 案」を提案するが天智天皇は、大海人皇子に「お前に頼む」と言ったとされる。後継者は確定しない

 ままに、天智天皇は崩御。

・大友皇子(近江朝廷)は、美濃・尾張で兵を集めたので、大海人皇子は、吉野を脱出した。これが

 壬申の乱の始まり。古事記では、大海人皇子はやむなく立って、勝利し飛鳥浄御原で即位、

 天武天皇となる>。

・ある意味では、皇位簒奪者とも言われる。この為、正当性を主張する国史となる。

「皇位継承の三要素が、強調され様になる」

(カリスマ性)  大王→天皇

天皇の称号を、天武より使い始めた。推古とも言われるが。現人神として神性を唱えるようになった。

(伝統性)

天照大神より、万世一系であるとした。天武は国史(日本書紀)の編纂を開始し、元正天皇(養老年間)で完成。諸豪族は天皇に奉仕するものとし、革命を否定した。

(律令制の導入)

飛鳥時代から導入されていたが、本格的には壬申の乱以降天智、天武が進めた。

天武の浄御原令、文武の大宝律令が例である。

「天武天皇の後継者」

天武皇后(鸕野讃良皇女、後の持統天皇)の長男・草壁皇子が候補であるが、大津皇子(母は皇后の姉の大田皇女の長男)も有力であった。文武共に優れ、衆望を集めていた。この為草壁皇子可愛さで、謀反の罪で刑死させる。しかし草壁皇子が病没するので、草壁の遺児・軽皇子(後の文武天皇)

即位まで、天武皇后(鸕野讃良皇女、後の持統天皇)がまず称制をして、持統天皇として即位。

 

「コメント」

壬申の乱は、兄の死後の弟(天武と兄の子(大友皇子)の後継継承の争いである。しかし天武の後継者は、まさに、息子・孫可愛さの持統天皇の獅子奮迅の働きで決まっていく。とても、百人一首の歌の様ではない。