201208⑩「日朝関係史と磐井の乱 その2

5世紀後半の有明海八代地域の、対朝鮮半島交渉のあり方について、玄界灘の地域との違いを話す。そのことを示すのは、熊本の江田船山古墳である。菊池川下流。様々な朝鮮半島の大伽耶由来の副葬品が出土。

「江田船山古墳」熊本県玉名市和水町江田

5世紀後半の前方後円墳。雄略天皇(獲加多支鹵大王 ワカタケル)と推定される人名がある太刀が発見された

→埼玉稲荷山古墳

玄界灘沿岸地域に、大伽耶系・新羅系の耳飾り双方が見られるが、それに反して有明海沿岸地域は、大伽耶系百済系の耳飾りとなる。新羅系の物はない。

「岩戸山古墳」福岡県八女市 磐井が生前作った墓とも言われている。石人石馬で有名。

しかし新羅との関係を示すのが、岩戸山古墳である。石人・石馬と馬具が新羅との関係を示している。

6世紀前半の九州での最大の前方後円墳。

被葬者は北部九州を支配した筑紫の君磐井。磐井の乱は、古事記・日本書紀に記され、「筑紫国風土記」逸文には、岩戸山古墳の事が書かれている。

「栄山江(朝鮮南部)流域の前方後円墳」

築造方法が日本の物と考えられるので、当時の倭と朝鮮半島との関係を示している。しかし現在でも、被葬者については議論中。ここに関わっていた北部九州の有力者が居たとする説が有力。そして副葬品から、倭王権の関与も見られる。

 

ここで「磐井の乱」について考えてみる。

磐井の本拠地は八女市。ここは玄界灘沿岸と有明海との中間地帯。そして岩戸山古墳は前方後円墳なので、倭王権とも一定の良好な関係を保っていたと推定される。そしてその磐井が倭王権を見限った経過について考える。

きっかけは新羅が金官伽耶に侵攻→伽耶は倭王権に支援要請。倭はこれを受け入れて、磐井に協力を要請(港湾-軍事動員・外交の一元化→新羅との断絶)・・・・。新羅は磐井に協力を裏で要請していた。

ここで磐井は倭王権に対し、新羅に組して反乱を決意する。しかし敗北。磐井の息子・葛子は糟屋の屯倉を倭王権に献上し、罪を免れた。

この後、倭王権は朝鮮半島との外交の一元化・九州支配を強めていく。

これを示すのが、半島栄山江地域の前方後円墳築造がなされなくなったことである。

 

「コメント」

磐井の乱と原因、倭王権との関係についてはこれまでも色々と議論されてきたが、今回の説には

すっきりと賛成できる。