220426④「北条時政の追放」

比企氏を滅ぼし、源実朝を将軍として擁立し執権となった北条時政は、武蔵国に勢力を伸ばしていく。しかし、実朝を将軍から引きずり下ろし、新将軍に平賀朝雅を担ごうとしたため、義時と政子によって幕府から追放されることになった。

今回はその発端になった時政の妻、牧の方の告げ口、彼女の野望について話す。

 

知行国とは 国主とは 南関東、房総半島、北関東の国々

今回は学問的な話というより、武士たちのエピソ-ドが主である。前回の話のように、北条時政は

比企一族を滅ぼす。

三代将軍実朝を擁立する。将軍の後見役として、この時に執権という言葉が出てくる。

北条氏は伊豆から出てきて、鎌倉、相模周辺で力を獲得し、遂には関東武士団の本場、武蔵国を手に入れることになる。武蔵、相模、伊豆、駿河は南関東四ヶ国と言われるが、曽我物語によれば南関東四ヶ国の武士団は日頃、仲良く付き合っている。箱根山権現、伊豆山権現という同じ神を信仰している。又婚姻によって、姻戚関係に有る。

南関東四ヶ国というのが鎌倉幕府のおひざ元になるのである。

その裏付けが知行国というものである。当時国には国司がいた。いわば県知事で、サラリ-マンである。更にその上に、国主というのが置かれていた。国主は税を自分のものにできた。

例えば平清盛1179年にク-デタ-を起こし、全国66の国の半分の国主となる。後は有力貴族で占める。鎌倉幕府は多い時で八ヶ国、最後まで持っていたのが武蔵、相模、伊豆、駿河の南関東四ヶ国である。

国主は国司の任命権を持っているので、南関東四ヶ国の国司は北条本家が占めていた。武蔵守・相模守・・・・・

その南関東四ヶ国に次いで、房総半島、下総、上総、安房、そして三番目が北関東 常陸、下野、上野。これが関東を形成する。

初代執権北条時政の後継者

さて北条氏は将軍の後見役たる執権についた。時政は自分の後見役をどう考えていたのか。これはなかなか面白い。義時は幕府の正式な歴史書吾妻鏡には、北条義時ではなくて江間小四郎義時である。恐らく北条氏を継ぐ人ではなかったとされていたのでないか。では北条氏の後継者は誰なのか。時政は政範を考えていたが、15歳で死去。そこで、後妻、牧の方との娘婿である平賀朝雅を後継者にしようとした。

牧の方とは

頼朝の命を助けた清盛の母の、池の禅尼の姪。つまり京都貴族のお嬢さん。育ったのは禅尼の所領の沼津当たりの荘園。

それで池の禅尼は、自分の姪である牧の方の夫となる北条()時政に、頼朝をしっかり見張る様に命じて、頼朝を伊豆に流した。まだ二人は結婚していなかったかもしれないが、それまでも時政は色々と平家と関係を持っていたはずである。

鎌倉幕府が出来て、時政がそれなりに偉くなってから、牧の方と結婚したのかも知れないが、ともかく色々と平家と関係があったはずである。→よって、政子より若かったかもしれない。

牧の方の乱  畠山氏の滅亡に至る経緯

さて牧の方がとんでもない事件を起こす。牧の方が生んだ娘の婿である平賀朝雅、父は平賀義信。比企氏の娘から生まれた、これは頼朝の父義朝の最後を共にした。祖先は新羅三郎義光で、源氏の中でも格式の高い平賀氏である。

源氏の貴公子である。後鳥羽上皇の受けもいい。

1205年、牧の方が妙な事を言い出す。牧の方の娘婿と、畠山重忠の息子畠山重康と口論になった。これを理由に、夫時政に、畠山を討てという。時政はとんでもないというと思いきや、「それはけしからん、畠山を討とう」という。まず義時を呼んで、「俺の娘婿が畠山に馬鹿にされたので討て」という。

以下は『吾妻鏡』。

そしたら牧の方の姉が、「貴方は継母だから牧の方を馬鹿にしているのでしょう」という。義時は「そこまで言うなら、畠山を討ちましょう」と言って鎌倉街道を進軍する。畠山軍と二俣川で出会う。話を聞いた畠山重忠は、それでは仕方ないと闘い、討ち死にする。義時は帰って、畠山はなにも敵対する気はなかったと報告する。これに対して時政は何も言えなかったという。時政は無実の畠山を殺したと言われるのは嫌なので、畠山の従兄弟が重忠の罪を吹き込んできたのだ。悪いのは、そいつらだと言う。

義時の執権就任

そうして、たきつけた牧の方は実朝将軍を廃して、平賀朝雅を将軍にしようとする。この為に政子と義時は、実朝を自分の屋敷に匿い、時政夫婦を伊豆の所領に隠居させる。これから江間義時は、北条義時を名乗り、二代執権として行動するようになる。この時にしぶといのは、牧の方である。夫と共に伊豆に行くかと思いきや、とんでもない。金を持って京都に行く。藤原定家の「明月記」によると、滅茶苦茶派手に過ごしたとある。何時までもしぶといものである。

 

北条氏のえげつない所はいつも同じ。誰かが邪魔になると、言いがかりをつけて殺す。終わって見て、実は無実であったとなる。その挙句、殺しに参加したものも口封じに殺してしまう。こういうやり方を鎌倉幕府滅亡までやり続ける。

吾妻鏡による畠山重忠描写の理由

吾妻鏡には、畠山重忠はとても良く書かれている。こんなに良く書かれている人はいないと言ってもいい。武士の中の武士。鎌倉武士の鑑。どうしてなのか。

(時政)を否定する行為で、義時が政権を乗っ取るのはまずい。だから重忠を善玉、いい人として持ち上げ、善玉である重忠を自分の奥さんの陰謀で滅亡させた時政は、悪いのだという事にしておけば、悪い奴を失脚させた義時は立派な人で無罪であるとなる。現実的に平賀朝雅、畠山重忠は武蔵国の有力御家人。これが滅ぶことは義時にとって大きな利益である。以降、武蔵野国は北条氏が独占する。時政の失脚事件は、実は武蔵野国奪取と表裏一体である。

 

今日は北条氏のやり口の一端を述べた。鎌倉時代の歴史は、厳しいの一言である。

 

「コメント」

京都のお公家さんが鎌倉は怖い所というのが良く解る。益々、大河ドラマで義時の描き方に興味が湧く。三谷はどうやって無実にするのか、悪役を誰に擦り付けるのか。何とも面白いというか、実は腹の立つドラマでもある。事実かどうかはともかく、通説をここまで破壊していいものか。