220517⑦「』御成敗式目の制定」

承久の乱によって武士の時代が確立される。この時、幕府軍を率いたのが義時であった。そして父義時が亡くなって執権を勤めるのが北条泰時。彼は1232年、武士の為の法律「御成敗式目」を制定。日本初の武家法は、朝廷の法とどんな違いがあったのか?新しい法律を定めることで、泰時はどのような政治を行おうとしたかについて話す。

承久の乱後の幕府と朝廷の関係 泰時を中心として

承久31221年、承久の乱。これで朝廷軍に幕府軍は勝利する。この総大将だったのが泰時。37歳。泰時は上洛するが、暫らく京に留まる。この事で、朝廷は幕府のやり方に口を出せなくなる。これ以降、幕府へ従うようになる。

朝廷が逆に必ず、重要な事を相談するようになる。一番大事なことは、次の天皇を誰にするか。幕府に伺いを立てるようになる。大抵の場合、どうぞどうぞという事であるが、例外があった。それは後鳥羽上皇の本流の方が、天皇になろうとした時に、これに反対をした。後鳥羽上皇の傍流の天皇とするプランである。

幕府を動かしている執権北条氏は、将軍の下の筈である。将軍の補佐役のはずである。そうなると京都の朝廷の役割は何なのだろうと思われる。泰時は3年間、六波羅探題として在京した。その間に色々な形で朝廷から影響を受けたのであろう。

それまでの泰時に教養があったかどうか分からないが、有名な話として洛北の高山寺の明恵上人とのエピソ-ドがある。

此処に朝廷軍の兵士が逃げ込んだので、安達景盛が捕らえて明恵上人共々、六波羅に連行した。ここで明恵は、高山寺は殺生禁断で、逃げ込んだ兵士を匿うのは当然。これに文句があるなら私の首を取れという。

この態度の見事さに打たれた泰時は、明恵上人に私淑して教えを乞うようになる。ともかく京都という文化の最先端、学問の都で、様々な事を学び、やがて鎌倉に戻る。

泰時三代執権就任 連署  評定衆 

その鎌倉に泰時が戻る時には、父義時は亡くなっていた。次の年、頼朝を支え続け、後、義時と共に幕府政治を見てきた大江広元が没。同じ年に政子も没。初期、幕府を動かしてきた人々が全部いなくなった状態で、泰時は政治を行うことになる。そこで泰時は、北条時房を連署とする。もう一人の執権である。二人の名で文書が発行される。二人で署名するので連署という。そして評定衆を作る。三浦義村などの有力御家人を指名した。全体で13人の合議制とした。これが四代将軍藤原頼嗣を補佐する形で、評定衆が存在した。しかし、どういう事をやっていたかの資料が無いので分からない。

初期の13人の合議制はやっていなかった可能性が高い。しかし泰時の作った13人の評定衆は幕府滅亡まで続く。

だから執権の下に評定衆がいて、執権が決定する時に評定衆の合議が参考になっていた。

評定衆の設定によって、幕府が合議、話し合いによってさまざまな決定を下す組織になったという事である。そう意味で泰時のやり方は面白い。そして、この幕府の評定衆の決定が朝廷に影響を与える。朝廷は、この後上皇の下に評定衆という物を置き、合議してその決定が上皇の決定として下されるというシステムとなる。

御成敗式目

義時は何といっても、御成敗式目の制定が重要である。

・これまで公家の法律であった律令を、武士の習慣、実態に合わせて作り直したのが、51ヶ条の御成敗式目である。

・全国の守護に伝達され、全ての守護が熟知する法律となった。

・それ以降の武家社会の基本的法律の基本となった。

・基本は先祖伝来の土地の将軍による保証てあった。

・裁判のやり方の明示。

 

きちんと書かれた成文法である。泰時は弟の重時に手紙で「我々武士は教養がなくてダメだから、難しいことは分らない。

朝廷には細かい法がある。武士の社会はそうはいかないので、私は世の中の道理に従って法を作ってみた」とある。

だからこれは武士の為の法である。これは朝廷の判断を拘束するものではないとはっきり言っている。

その構成は聖徳太子の17条の憲法をリスペクトした形になっているが、非常にシンプルな法令集が出来上がった。

全国の守護、御家人は熟知していたことと思われる。

この御成敗式目に従うと、間違いは無いと信頼していのであろう。

ここで問題となるのは、実は道理と先例という問題である。これに基づいているというと、今までの慣習に従って作られたと思われ勝ちであるが、それは違うのではないかという研究者がいる。先輩の笠松宏至である。彼によれば、謙遜して道理に従っていると言っているだけで、よく考えると違っているのではないかとの意見である。実社会で行われている道理も、先例も数多くあり、又地方によっても違う。相矛盾するものもある。

そういう状況で、幕府がこの道理を成文法として使うというのは、これはあくまで幕府が自分の考えを定めているのだ。

だから道理に従っているということを、課題に評価すべきではない。幕府は幕府の判断・考え方に従って御成敗式目を制定したのだと言っている。

私があえてこの事を言うのは、この事を基本にして博士論文を作ったのであるから。

朝廷もこの後、幕府のやり方でやろうという事になる。この時代は幕府と朝廷の関係は良くて、手を携えていこうという感じである。

その時の朝廷の裁判を分析してみた。朝廷はその時に何を根拠にしていたのか。

泰時は「幕府は道理に従ってやっている」といっているが、実は道理と言っても世の中の道理ではなくて、幕府の定めた道理であり、幕府の意見判断が重要視されているのである。

元々朝廷はどうなんだというと、朝廷には昔から細かい法があった。700年頃に作られた律令とか、本所法(興福寺、東大寺、石清水八幡宮とかの大寺、大神社内で行われる法)とかがある。しかし時代経ると、これも廃れて世の中の道理で行っていたのである。

裁判の結果の強制力(結果を受け入れさせる力)というと、幕府は武力を持っていたが、朝廷は持たない。しかし大寺、大神社は兵力を持っていたので、朝廷は幕府に頼むしかない。六波羅探題である。

朝廷は幕府の武力をバックに政治を行うしかなかった。

 

様々な評価はあるが、泰時は政治を真面目にきちんとやろうとした人であることは間違いない。

 

コメント」

御成敗式目と言うと、今まで江戸時代の物かと思っていたが、鎌倉時代の泰時が作ったのだ。全くの不勉強。

 

ある意味、裁判は御家人にとって一番重要な物であったろう。その基本を定めたのはすごい。