220524⑧「宮騒動と宝治合戦」

1247年、泰時より執権を継いだ時頼は、幕府創立以来、協力関係に有った三浦氏と武力衝突を起こし、滅亡させる。

宝治合戦である。何故このようなことが起きたのか。又朝廷を巻き込んだ宮騒動とも名越の乱とも呼ばれる、名越(北条)光時の反乱未遂、前将軍藤原頼経の鎌倉からの追放について話す。

鎌倉幕府と貴族との関係

  頼朝と九条家との関係

先ず藤原道家という貴族が登場する。藤原一族の貴公子である。藤原一族は平安時代には、藤原としか名乗っていないが、藤原忠通の息子で三つの家に別れる。近衛・松殿・九条。近衛は本家中の本家、ずっと現在まで続く。松殿というのは、木曽義仲と同盟したために没落する。最後に九条の家も繁栄して今に至っている。鎌倉時代に近衛家から、鷹司家という分家が確立する。九条の家から出てくるのが、一条家、二条家。一条家は鎌倉時代には振るわなかったが、復活して、室町時代になると、この五家が摂政関白という、天皇権限を代行する家、補佐役ではない。天皇を代行するのである。いわゆる五摂家である。

頼朝が手を組もうとしたのが九条家、九条兼実という人と、頼朝は手を組んで後白河上皇の強大な権力に対向しようとした。この九条兼実の孫になるのが、九条道家という人物。

  九条道家による摂関政治の復活

平安次第以降、摂関政治を否定する形で、上皇の院政が行われてきたが、九条道家はこの時に何故、摂関政治を復活させたのか。これは承久の乱という朝廷側の大きな敗北が、その様なある種の混乱を齎したというべきであろう。この混乱に対処するために、とりあえず九条道家が摂関政治を行ったという事である。そして承久の乱後7年後の1228年、関白になる。そして関白になった彼が直面したのは、1230年から数年間続いたに寛喜の大飢饉である。死者多数である。

これについて道家はどう考えていたのか。「人々が苦しむと天が怒る。天が怒るから災害が起きるとする。何故天が怒るのか、人々の恨みとか苦しみとかそういう物があると、天が怒るのである。災害を鎮めるためには、人々の苦しみを鎮めればよい。だから、我々朝廷・貴族は人々の苦しみ、恨みを除去することが肝要である。」とする。

  九条道家による徳政 道理 による政治 天皇問題で幕府と対立

こういう形で道家は、徳政をやろうと言い、徳政をやることによって災害を鎮めようとする。

徳政と言っても言葉だけでなく、形を成していなければならない。彼がまず言ったのは、朝廷の中の人材抜擢。次に雑訴の興行、これが二本の柱である。雑訴の興行とは民間の訴訟を積極的に行うことである。これによって民間の恨みや苦しみを除去しようと考えたのである。民衆には歓迎された、今までは威張っていて税金を取るだけであったのだから。左-ビスを始めたのである。左-ビスするから、税金を下さいという形になった。

彼がこういうことを出来た背景は、彼の子供の一人が鎌倉幕府の四代将軍であったからである。

それまでの裁判は律令制があったので、朝廷をそれを使うはずであったが、承久の乱で敗北し武力の背景が無くなり使えなくなった。よって当時律令制は使われていない。

道家はどうしたかというと、道理という理屈を使った。当時の社会通念である。それでも処理できないことは、強制力を持つ幕府に処理を依頼した。これで九条道家=朝廷の評判が上がり、権力が拡大していくことに幕府は警戒し始めた。これが爆発したのが、1242年四条天皇崩御の時である。道家は次の天皇候補として、後鳥羽上皇の孫二人を候補とした。

後鳥羽上皇の推薦でもある。しかし幕府はこれを嫌う。後鳥羽上皇の嫡流の復活であるから。これで幕府と九条道家の対立が明確になった。

  名越氏の滅亡 それに組した四代将軍藤原頼経、九条家の失脚 西園寺家の勃興→

            これを宮騒動という

この時期の鎌倉に目を移すと、北条泰時にはライバルがいた。それは北条朝時(ともとき)。義時の次男であるが、比企氏出身の正室の子としては長男であり、北条家の嫡流であった。長男泰時は側室の子。比企氏滅亡後は、その広大な所領を相続した。弟であっても、嫡流の意識があり、兄の泰時と対立。邸の地名を取って、名越を名乗る。

泰時、朝時両者が亡くなって次の時代となる。泰時の孫である時頼と朝時の子光時。そして時頼が執権となる。

この両者の緊張が走るが、合戦までには至らなかった。しかし、名越光時は失脚する。しかしこの事件は大きな広がりを見せる。それはまず、四代将軍藤原頼経はこの時、自分の息子に将軍を譲って、隠居であった。この人が名越派。この人が名越派という事は、京都の九条家も名越派という事になる。そして、現在の後嵯峨天皇、後嵯峨上皇を擁していた。

だから、時頼による名越光時の追放は、共にそれに組したグル-プ全部の失脚という事になった。執権時頼は、執権に就任直後早々20歳で、名越一族及びそのグル-プを失脚させたのである。彼は実行力のある人であった。

そして、前将軍・藤原頼経を京都に強制送還する。そうなると、藤原頼経が、象徴的に九条道家と鎌倉幕府との、絆を示していたが、それが断ち切られることになる。それと共に、時頼は九条道家を許さない。つまりどういうことになるというと、彼の腹心たちが幕府と朝廷の関係、交渉を色々とやっていたが、このメンバ-全部を罷免する。

そして、承久の乱の時に、唯一幕府寄りの姿勢を示した西園寺家、これはまさに命を懸けて幕府に情報を送ってくれた貴族だったので、鎌倉幕府は、西園寺家を京都における立場をバックアップする。これまで朝廷と幕府間の交渉事は九条家が仕切っていたが、1246年政変で九条家は排除され、西園寺家の役目となった。こうして西園寺家は、鎌倉時代を通じて大きな政治的権力を握ることになる。摂政関白にはなれないが、歴代の太政大臣となる。余談だが、西園寺家の別荘が北山にあるが、それを譲り受けて、後の足利義満が造ったのが金閣寺である。西園寺と言えば、朝廷随一の権勢になったが、これは全て幕府のバックアップである。

宝治合戦 三浦氏の滅亡

それと共に関東でもう一つ大きな合戦が起きる。それは1247年の宝治合戦。三浦氏が滅ぼされる。三浦氏というのは、頼朝以来ずっと鎌倉幕府を支えてきた名門。北条氏に次ぐ力を持っていた。ずっと北条氏と共に、陰謀を行い、合戦を闘い、その地位を築いてきた三浦氏であったが、この時点で争い、三浦氏滅亡。宮騒動の主役、九条道家は三浦氏の兵力を使って名越氏に肩入れし、北条時頼を排しようとしたとも言われる。これが後々尾を引いて、宝治合戦に繋がったとも言われる。九条道家は、朝廷、各蔵幕府を含む大きな体制変換を考えていたのである。これが全部北条時頼によって水泡に帰すのである。

 

「コメント」

 

関東の御家人たちの凄まじいまでの武闘。そして陰謀の数々。それに陰湿な朝廷との関り。それにしてもここまでの北条氏は、優秀な人を輩出。そして北条は残ったということ。