220531⑨「撫民政治の誕生」

「民の喜びこそが武士の喜びである」鎌倉幕府の新たなリ-ダ-となった北条時頼は、民にやさしい撫民政治を行った。

どうして時頼は民を可愛がる政治をやろうとしたのか。鎌倉時代に展開した鎌倉仏教のひとつ「浄土真宗」の教えとの関連から考える。

 将軍は政治家か?

今日は北条時頼の撫民という事を話す。頼朝というのは政治家というのには躊躇いがある。彼は将軍、将軍というのは武士の第一の地位、室町時代・江戸時代も将軍がいる。それはどういう存在であったか。

一つは軍事のリ-ダ-。もう一つは、政治のリ-ダ-。これが将軍という物である。ここには経済、文化というものはない。こう言った場合、頼朝はどう云った存在であったか。頼朝自身はさほど戦場に出て、戦うという事はなかった。だから、武人として戦場で活躍することもないし、義経みたいな戦術家でもない。しかし合戦の総大将ではあった。軍人である。だから朝廷から征夷大将軍という地位を貰い、その地位を明らかにする。そうすると政治のリ-ダ-として、頼朝はやっているのであろうか。そもそも政治とは何なのか。確かに朝廷との折衝はやっていた。鎌倉幕府の人事とか経営はやっていた。しかし我々が政治家という時には、やっぱりやらねばならないのは、民衆の生活を守る事ではないのか。社会を守る事、国民の生命財産を守る事ではないのか。頼朝はどう見ても、それはやっていない。

 そもそも政治とは何か?

三段階で考えるべきではないかと思っている。

第一段階 頼朝

鎌倉幕府の初めまでは、税を取ると言った時に、取れるところから、取りやすい所から取るという事で行われてきた。

頼朝はまさにこれである。

第二段階 泰時 勧農 農業を指導する

ただ取るだけではなく、効率的に取ることを工夫するようになる。その為に取る所と取る者たちを太らせる必要がある。

つまり取る所の財産を大きくする。それによって税を取り易くする。或いは沢山取れるようにする。その為には、ある程度、民を支えもするし、指導するという事もやる。前回の講義でサ-ビスという言葉を使ったが、最初に武士が行った事に、勧農というものがあげられる。灌漑の工事、先進技術の

導入、様々な意味で農業経営が上手く行くように取り計らうのである。こういう風に農業をきちんとやらせることによって、税を取り易くする。これを泰時はやったのである。

第三段階 時頼

今度は民が喜ぶこと自体が、武士たちの喜びという事になる。自分たちの使命は、民の生活の安定をもたらす事であるとなる。前回、九条道家は承久の乱という苦難に遭遇し、更に寛喜(かんき)の大飢饉にも遭遇し、民が苦しんでいる様子を見て、その後税が取れない状況に遭遇した時に、サ-ビスをすることによって税を受け取ろうと考えて徳政という事を展開したという事を話した。

しかしこの九条政権が崩壊した時には朝廷では、天皇上皇がいる昔ながらの形で政治が行われている訳である。つまりこの時の朝廷はサ-ビスをやっていない。そういう権威が傷ついてしまった天皇のもとに税は集まって来ない。それで君臨しているだけではだめだと、この辺から君臨から統治へと

性格が変わっていくのだろう。

 

そういう時に北条時頼の時代に、幕府は撫民という事を言い出す。民を可愛がることである。これは民が幸せであることが、われわれ武士の願いであると、第三段階に進むのである。朝廷が此の第三段階がどうかは分からないが、西の徳政に呼応するように、東の撫民である。ここに統治者としての朝廷と幕府が、手を取り合って日本を治めていくという姿を見る事が出来るのである。

だからこの段階こそが、まさに政治活動であるとすれば、本当の意味での政治行為が、日本に出現した時代なのかもしれない。

 時頼の人となり 就任後すぐに宮騒動  浄土教への帰依

まさに1250年頃。時頼は泰時の孫である。三代将軍泰時の長男・時氏は京都の検非違使の時に発病し20代で死去。

その息子の経時が四代執権となる。しかしこれも病弱で23歳で没。弟の時頼が後を継ぐ。北条得宗家にとってライバルであった名越家を滅ぼす。それから朝廷で大きな力を持っていた九条道家をつぶす。次いでこれに加担していたとして、北条家に次ぐ実力御家人の三浦氏を滅ぼす。果断な人物で

あった。

   時頼と宗教 浄土教

どうして時頼が民に優しい政治を行おうとしたのか。そんなことがあるのかと言われるかもしれないが、浄土教の教えという物を考えてみたらどうだろうか。この時代には鎌倉新仏教というものが現れる。その一つが浄土の教えで,南無阿弥陀仏、→阿弥陀様に帰依します。南無阿弥陀仏と唱えなさい、さすればどんな罪のある人でも極楽往生が出来ると、法然が主張する。

 「鎌倉仏教」

それまでの仏教界というのは、天台、真言 この二つが中心的な物で、基本的には貴族向けの物であった。だから民衆の救済には向いていなかった。そういう意味で、鎌倉新仏教の教えというのは、画期的であった。対象を庶民としていたのである。そして法然の浄土教から、親鸞の浄土真宗が生まれ、又一遍の時宗が生まれる。更には、南無妙法蓮華経、つまり法華経の功徳で極楽往生するとする日蓮宗も生まれる。全て庶民にも理解しやすい教えである。

面白い本がある。広疑瑞決集(こうぎずいけつしゅう)。どういうものかというと、諏訪氏の一族・上原氏の信仰上の質問に、僧・信瑞が答えるという問答集である。質問「我々武士は農民から沢山の税を取りたてる。そうしたものを、使って寺を立て仏像を作り、仏に喜んでもらおうとする。仏は本当に喜んでくれるだろうか」答えは「NO」この時代にこんなことを云う僧がいたのだと私は驚いた。それまでの天台真言の救うというのは、寺を作ってそして仏像を作り、極楽に行こうという考え方。そうした中で、こういう僧が出現したという事に驚いた。「貴方たち武士は民を可愛がりなさい。民を可愛がることを仏は喜ぶのです。立派な寺や仏像を作ることは必要ない。」

この考え方は、時頼の撫民と同じである。この僧は法然の弟子にあたり、鎌倉に来て時頼に話している。すると時頼の撫民を浄土の教えから出ているのだ。

「北条重時」 徳大寺実基

それを裏づける史料として、泰時の弟で北条重時という人がいる。母は姫の前という比企氏出身の美女で、義時が見初めた。重時は兄に忠実であった。京都で六波羅探題を勤めていた時に、彼が影響を受けた人物というのが、この浄土の教えをうけ止めた貴族たちであった。その中の一人が徳大寺実基という人。徒然草にも出てくる。206段、207段。

いち早く合理的な精神を獲得した人物として有名である。エピソ-ドがある。

ある時、部下の牛車が彼の所に来たが、牛の頸木(くびき)が外れて、牛が徳大寺家の屋敷の中に入り込み、座敷に座り込んでしまった。そしたら周りの人が慌てて動かそうとしたが動かない。仕方ないので始末せねばならないと言っていると、徳大寺実基は、この牛を殺すのは可哀そうだしと、咎めなかった。徒然草より。

当時、怪しげなることは大変な事という時に、合理性を身につけていたのだ。彼は、モンゴルがやってくるという事を言って、上皇に建白書を出している。書いてあることは、最初に神様をしっかりと守りましょう。これで国家としてすっきりする。

だけど神を祀るのに余分な人は要らない。民から余分な税を取って、祀って貰っても仏は嬉しくないはずだ。

こういう徳大寺実基と親交を結んだのが、北条重時であった。

徳大寺実基の考えの一端を披露する。彼は家訓を残している。

「弱いものを労われ。いつも税を取っていたら必要な時に取ることは出来ない。人間は生きている内に罪を重ねてしまう。民を可愛がることで、そうした罪から逃れることが出来る。」とキリスト教の原罪みたいなことまで言っている。

北条重時は、京都で得た知識を時頼に伝え、連署として時頼を支えた。

「北条時頼の撫民政策」 禅への傾倒

以上の様な考えを時頼は撫民政策、本当の意味の政治を行う政治家として成長していった。

その後時頼は、禅に傾倒こしていく。この場合の禅とは、何かを信仰するという事ではなく、

知のトレ-ニングである。

阿弥陀仏を崇めなさいとか、法華経に頼りなさいと言った事ではなく、座禅で先生から与えられた題を考えていくことは、こういうタイプの武士にピッタリだったのかもしれない。

そうやって初期の御家人は字も書けない状態から、深く思索を深めていくまでに成長したのである。北条氏というのは、その成長過程を見ていくだけで実に楽しい。

「コメント」

 

確かに、鎌倉幕府と言うと、源氏という事になるが、実際に運営していたのは御家人たち。その中の北条氏なのである。それが伊豆の小さな豪族から天下を動かすまでになる。まさに貴族から武士の時代に仕立て上げたのである。大袈裟に言えば、今の日本の基礎を作ったので

ある。講師も、授業ではなく、言いたい放題の雑談会の雰囲気となってきた。