220606⑩「高野山へ」

空海の嵯峨天皇へ上表文

弘仁7年816年6月、この年は空海と最澄が決別した年でもある。この年に空海は嵯峨天皇に高野山を下さいと願い出た。これは修禅の道場を開くことを願い出たのである。空海自身の文章を読むと、「立派な寺は沢山ある、立派な僧も沢山いる。只恨むらくは山の中入って瞑想する人はいない。だから本当の仏教がまだ伝わっていないのだ。修禅の為には深い山の中で平らな所があることが必要である、高野山がそうである。自分は若い時から好んで山に行っているが、吉野から南に行くこと一日、更に西に向かって両日で、平原のある地がある。そこが高野山である。東西南北は高い峰、真ん中が平地になっている。そこには人が通った跡はない。そこに道場を作りたいのです。上は国家の為、下は修行者の為に、藪を切り開いて修禅の道場を建立したい。東西南北は高い山で誰も人は通わない。そういう場所が修禅の道場には最適である。そこで弟子たちを修禅させる。」と書いている。

又こんなことも書いている。

「中国から帰ってくる時に船が風で遭難寸前になっていて、その時に一つの願い事をした。もし無事に日本に帰りついたら、神々の威光が増すように、国を守り、衆生を救う。その為に一つの禅院を作って修行したい。だから神様守って下さい。早く日本に無事に着きますように。神様が守ってくれて無事に日本に帰ることが出来た。しかし月日は徒に流れて、気が付いたらもう12年も経っていた。でもまだその禅院道場は出来ていない。もしこの願いが実現しないならば、それは神を欺いたことになる。」

そして天皇が許可を出して、国司が具体的な手続きをした。高野山を手に入れた。

 なぜ高野山なのか 色々な話がある。

密教では三鈷杵(さんこしょ)という銅で作って金メッキした道具があるが、その三鈷杵を投げて落ちた所に寺を作ろうとした。投げた所、それが高野山の松の枝に引っかかっていたという話がある。その時投げた三鈷杵も高野山に伝わっている。その松の木もあって、面白いのはここの松葉というのは、葉先が三本に分かれている。これは三鈷杵だからと。

また面白い話としては、空海が良い所はないかとその辺を歩いていたら、山の中で黒犬と白犬を連れた狩人に出会った。

実はそれは人間ではなかった。ここ高野山を治める丹生明神(にゅうみょうじん)の子・狩場明神であった。それで土地の神から高野山を貰ったという伝説である。このため高野山山上には、丹生明神、

高野明神、狩場明神を祀る神社がある。

 空海 高野山に行く

こんな風に空海は神から高野山を貰ったというということになっている。高野山に行ったのは弘仁9818年。嵯峨天皇にお願いして2年後である。 11月中旬に初めていった。真冬であるのになぜ空海は行ったのであろう。周囲はこの季節に行くことに反対するが行く。手紙を出している。

「私は高野山に来ています。庵室を作る事から始めます。高野山は山高くして雪が深いので人は歩けない。」

そして越冬するのに物資が足りないと訴えたので、スポンサ-の藤原冬嗣から食料、油、皮衣が送られてきた。

空海の友人 良岑安世(よしみねやすよ) 桓武天皇の皇子・臣籍降下 の手紙。

「あなたは何故この寒い時に行くのですか、人間の住むところではないところに。山の中に何の楽しみがあるのですか。大事な経本も湿気でやられてしまいます。食べ物もないので飢えてしまいますよ。」

空海の返事。

「この高野山の松、石はどれだけ見ていても飽きることはない。谷川の流れのなんと素晴らしいことか。見飽きることはない。あなたも俗世間の毒にやられてしまう前に、山に入ったらどうか。朝の谷川の水、夕暮れの山の霞、これは最高である。」空海とはそういう人なのである。

 

何でもできる人、万能の天才、誰とでもうまくやれる人、最澄は別として。そういう人が人間の世界を離れて高野山に行って、谷川の水が、山の霞がといっている。

 

高野山に寺を作る

その翌年弘仁10年819年、いよいよ寺を作る、結界を作ると言う時の文章がある。要約すると

「総ての仏様、そして総ての神様、そして山の中にいる鬼たちに申し上げる。私はここを選んだ。東西南北、ここはいい場所である。天皇が下さったここに寺を作りたい。様々な仏様のご恩に報いて、密教を盛んにします。そして様々な神様たちがPOWER UPして、全ての生あるものが住むことが出来るようにします。その為にここに金剛界、胎蔵界の大曼荼羅を建立する。曼荼羅というのは画だけでなく、曼荼羅世界をここ高野山に作り上げたい。全ての仏様、神様応援してください。実現させてください。この結界の中にいる悪い鬼、悪い神様は出て行ってください。良い神様、鬼はこの結界の中に自由に住んでください。今から作るこの道場は、全ての神様や日本が出来て以来の天皇や皇后の魂、そして総ての神様がこの寺の檀守である。」

なかなか気持ちの入った良い文章である。空海にはこの場所が特別な場所、曼荼羅みたいに無数の仏や神や鬼が目の前にいるように見えたのであろう。

 

高野山に行ってみると、この壇上伽藍といわれる場所があって、そこに~院というのがあるが、これは僧の住宅である。高野山の中心地に大塔が東西にあって、その手前に金堂がある。これが一番大事な建物であるが、大塔の横に空海を祀っている御影堂がある。一番西の端に丹生明神や雁金明神などの鎮守がある。

建設は空海が生きている間には殆どできなかった。大塔は作っては焼け作っては焼けを繰り返した。大塔の手前に金堂があって、かつては国宝の七体の仏像があったが焼けてしまった。昭和になって高村光雲が制作して安置されている。

 

空海が亡くなる前年、高野山はなかなか大変だということが書かれていて、作業員の食料がないので皆さん僅かでもいいので援助してくださいと言っている。やがて都に東寺が与えられて、都にも拠点を持つようになる。極端に違う二つの世界である。空海には万能の天才で誰とでもうまくやれて好かれる面と、山深い谷川の水を飲んで喜んでいる両方の面があった。

 

「コメント」

 

若い時から山林を跋渉していた空海なので、未開の高野山を選んだのはわかる。そしてちゃんと都にもアンテナショップトして東寺。そういう話より、どういう手練手管で、嵯峨天皇から高野山をせしめたかをもっと話してほしかった次の東寺入手は更に詳しく。