220620⑫「十住心論」

今日は空海の「十住心論」であるが、この内容を紹介する。

十住心論とは ウィキペディア

空海の代表的著述の一つで、830年頃淳和天皇の勅に応えて真言密教の体系を述べた書。人間の心を凡夫から最終的な悟りの境地に至るまでの10段階に分けて整理・解説したもので、それぞれに当時の代表的な思想を配置することで、仏教全体の体系的整理・解説も行っている。9段階目までの顕教に対し、10段階目を密教とし、人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。

 淳和天皇の各宗派への質問

此の講座の中で最も難しい話になると思うが、空海の事を知るにはこれは欠かせない。これは空海が亡くなる直前であるが、時の淳和天皇は各宗派に「宗派の教えとは」と質問し回答を提出させた。それを提出したのは南都六宗では、法相宗(興福寺、道昭)・華厳宗(東大寺、良弁)・三論宗(元興寺・大安寺、恵灌)・律宗(唐招提寺、鑑真)。倶舎宗と成実宗は三論宗に付属しているので実際は四つである。南都六宗以外には、天台宗、真言宗も出した。                                            

 空海の回答書

 空海の出した本は「秘蔵宝(ひぞうほうやく)秘蔵の倉があって、素晴らしい宝物が入っている。それを見る事が出来る鍵の様な本という意味である。詳しいことは「十住心論」に書いてあるという風に書かれている。

「秘蔵宝鑰」「十住心論」の二つが同時に書かれていて、「十住心論」は余りに難しいので天皇に出すのは、もう少し纏めて簡略にしたものを出したと説明される。「十住心論」は以前にも書いていてこういう機会に、少し単純化して「秘蔵宝鑰」を新たに書いて出したものと思われる。詳しいバ-ジョンと簡易バ-ジョンということになるが案外違う所もあって、「十住心論」の場合つまり人間の物の考え方、宗派の哲学、それを最低最悪から最高迄の10ランクに整理したものである。「秘蔵宝鑰」だと一番上は真言宗と書いてあるが、「十住心論」の場合もそうなってはいるが、最低最悪も実はそれと一緒なのだと書いてある。本質は実は10ランクは皆同じだといい、他を否定していない。そういう所が空海の空海らしい所でつまり他の宗派とは対立しないのである。

だから東大寺の中に灌頂道場を作ることも出来るし、他の宗派の人とも仲良くできるのである。特に奈良は全部真言宗が入っているので尚更である。

東大寺には華厳宗と真言宗、興福寺には法相宗と真言宗、薬師寺は法相宗と真言宗、唐招提寺は律宗と真言宗、この様に奈良の寺院は真言宗である。

空海の考え方も表面はレベル差はあるが、実は一緒であると書かれているのが「十住心論」である。

それを順番に見ていく。10の心のレベルがあるという。

第一 異生羝羊心(いしょうていようしん)   最低のレベル  煩悩にまみれた心、

第二 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)     儒教

第三 嬰童無畏心(ようどうむいしん)     道教、インド哲学、老荘思想

第四 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)     仏教の声聞

第五 抜業因種心 (ばつごういんじゅしん)  縁覚(えんがく仏教の聖者)

第六 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)   唯識、法相宗の境地

第七 覚心不生心(かくしんふしょうしん)   中観、三論宗の境地

第八 一道無為心(いちどうむいしん)    天台宗の境地

第九 極無自性心(ごくむじしょうしん)   華厳宗の境地

第十 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん) 真言密教の境地

こういう心のレベル段階がある。その十が実は、煩悩、儒教、道教、インド哲学そして仏教の声聞、縁覚(えんがく)→仏教の聖者、法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗に当たっていると書かれている。10の世界が一つずつ書かれているので、「十住心論」というタイトルが付いていて、その簡略バ-ジョンが「秘蔵宝鑰」という本である。一つずつ解説する。

第一 異生羝羊心(いしょうていようしん) 煩悩にまみれた心

雄の羊のような段階が一番下。性欲と食欲しかない。何も分かっていない、煩悩にまみれて、多くの人間はこのレベルである。無明の段階である。自分は色々と悪いことをしているのに全然気づいていないレベル。人間の姿はしているが、その様子は雄羊の様だ。だから六道輪廻(ろくどうりんね)といって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天といって六つの世界に、生前どんなことをしたかによって、生まれ変わり生まれ変わりしていくと考えられている。地獄、餓鬼、畜生、修羅を何度も何度も巡り巡っているようなのが第一段階である。だけど表面はそうなんだけど、これも仏の表れでもあると言うのが、空海の凄い所である。空海はこのレベルにも×を付けない。

胎蔵界曼荼羅は中央に大日如来がいて、一番周辺には何か変な連中がいて、それは又大日如来の分身でもある。

煩悩の塊で無明の私達も大日如来の分身でもあることはある みたいなのが空海の考え方である。

第二段階 愚童持斎心(ぐどうじさいしん) 儒教の境地

愚かな少年が戒律みたいなものを守り始めた。本当に小さい子は何も分かっていないので、いいことも悪いこともする。それを親が教え諭して、善悪を少しずつ覚えていく。そういう状態をいう。これは儒教に該当するという。空海は若い時から儒教の評価は低い。しかしこれも大日如来の一つの現われ方とする。この段階になると第一段階と違って自分を変え、見ることが出来るようになる。善悪の区別も分かってきて、自分の行動を見つめてくるレベルである。

第三段階 嬰童無畏心(ようどうむいしん) 道教、インド哲学、老荘思想の境地

赤ちゃんみたいな小さな子がお母さんの所に行って、すっかり安心して安らいでいる状態。これは道教、インド哲学のレベルである。赤子が母の下で恐れなく安心している心。色々いいことをすると次に天に生まれ変わるという考え方がある。それで本当にいいことをして天に生まれ変わった人もいる。それは赤ちゃんがお母さんの下で何の恐れもなく安らいでいるのと同じなのである。しかし天に生まれたとしても、それは永遠ではない。

天が一番上なのだけれど、天の生まれても又死ぬのでいつまでもいられる訳ではない。そして天にいたら、余りにも恵まれているので、いいことは出来ない。すると次は悪い所に落下する。だから天に生まれた者は、一時はいいが永遠ではない。今はいいのだけどという、そういうレベルが第三段階である。

第四段階 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん) 小乗仏教の声聞の境地

ここからは仏教世界である。難しいがこの世界は般若心経に五蘊皆空(ごうんかいくう  人間界の現象や存在は総て実体がなく、空(くう)であるということ)とあり、五蘊無我(ごうんむが)を良く了解することという。 蘊とは色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)のことであり、人間を含むこの世界を構成する五つの要素のことである。

それには存在しているのだけれども、永遠不変そういう我というものは存在しない。仏教の世界、第四段階からすごく哲学的になる。実は我々が思っている仏教は、仏さまに手を合わせてお祈りをしたりするような宗教の様に思っているが、元々はだいぶ違っていて、かなり哲学的にトコトン考え抜いていくのが仏教なのである。

第四段階では声聞といって、具体的にはお釈迦様の弟子みたいな存在で、お釈迦様から良い話を一杯聞いてそれで悟りを開くものを声聞といって、いい事と思うが、大乗仏教では×となる。つまり自分の悟りしか考えてないとされるのである。つまり自分の悟りしか考えてなくて、皆の幸せを全然考えないで、自分が悟る事ばかりに一生懸命やっているとして、声明はランクが低いのである。

第五段階 抜業因種心(ばつごういんじゅしん) 小乗仏教の縁覚の境地

次は仏教の縁覚といって、これは自分で悟るのである。声聞は偉い先生から教えて貰って悟るのであるが、縁覚は自分で悟るのである。

第六段階 他縁大乗心(たえんだいじょうしん) 大乗仏教の法相宗の境地

法相宗は何回か前に、法相宗と天台宗のバトルの話をした。天台宗は全ての人が成仏するというが、法相宗は成れない人は成れないという。そういう所が対立する所であるが、法相宗は唯識といって、総ては心の現われという考え方を持っている。奈良の猿沢の池に鯉がいる。手を叩くと鯉は餌を呉れると思い寄ってくる。旅館で手を叩くと用事かと思う。手を叩いていることは一緒なのに、聞く相手によってその意味を違って受け止める。

それが唯識なのだという。手を打てばハイと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池 これが唯識論というが、ただ心の現われがこの世界だというのが唯識である。

第七段階 覚心不生心(かくしんふしょうしん) 大乗仏教 三論宗の境地

三論宗という宗派は日本では明治期に無くなってしまう。現在はピンと来ないが、空の思想を説いている仏教の宗派で、不生不滅 という云い方があって、生きることもない、滅することもない、こういう全部を否定していく、その先に広がってくる世界みたいなものを追及していくのが三論宗である。大般若経というお経があってそれは空を説いているが、そういうものと言うのは空海によれば、文殊菩薩が深い瞑想に入って出してきた教えが空の教えだという。そして文殊菩薩というのは実は大日如来の知恵のシンボルであって、此の空の思想というのは実は大日如来の思想だという。つまり常に空海は浅い見方と深い見方と二つかならずあるという。浅い見方というのは、見えているこの現状これは本質ではなくて、その奥に見えてない本質があって、その本質の部分は1の段階もみんな、真言密教大日如来の世界だと言うのが空海の考えである。

その深い所というのは、凡人には見えないのである。勉強していかないと、密教世界に入っていかないと見えないが、実は中にそういう最高の物がどのレベルにもあると言うのが「十住心論」の結論なのである。

第八段階 一道無為心(いちどうむいしん) 天台宗の境地

第九段階 無自性心 (ごくむじしょうしん) 華厳宗の境地

第八段階は天台宗として、九番目は華厳宗である。空海は華厳宗を高く評価している。密教に対する言葉として顕教というが、この顕教で最高なのが華厳宗という。だが華厳宗には足りないところがある。華厳の教えというのは、この世界の実相は個別具体的な事物が相互に関係しあい重なり合っているという考え方である。

この実相を四つの見方 四法界 に分ける。

事法界(じほっかい) 我々凡人に見えている世界

理法界(りほっかい) 今見えている世界の背後に真理の世界がある、これをいう

理事無礙法界(りじむげほっかい) 真理の世界と今見えているこの世界というのは、融通無碍に溶けあっていて、真理と現実は実は一緒なんだという

事事無礙法界(じじむげほっかい) この見方があるのが華厳宗のいい所である。最高のレベルなのだが、真理というものを取っ払って、今見えているこの世界が究極の世界だという所にたどり着くのが華厳なのである。私の理解では、この考え方は空海の真言密教とそっくりなのである。事事無礙法界(じじむげほっかい)というのが華厳の重要な考え方で、この世界こそが究極の世界だが、でもこの世界は最初の事法界(じほっかい)浅い世界でもあるのだが究極の世界でもある。

野球でホームべ-スの所に立っていても、立っているだけでは0点である。1塁から2~3塁を回って戻ってきたら1点になる。その手続きが必要なのである。事法界、理法界、理事無礙法界を経て、ここに戻ってくると同じ事法界事事無礙法界に変わっている。0点が1点に変わると言うのが、華厳の世界である。私の理解では密教世界とよく似ていて、だから空海は密教を別にしたら、華厳が最高だと言っているのである。

第十段階 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん) 真言密教の境地

私達の心の奥底には、胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅のあの仏様たちが私の心の中にいる。だから悟りとは何か、私の心である。但し私の心が仏様と共に私の心が見えなければならない。でもそういう考え方はさっきの華厳の事事無礙法界とよく似た考え方だと思う。顕教と密教はどこに違いがあるかというと、華厳宗゛の顕教というのは、こんな薬があります、こういう病気に効く薬ですよと教えてくれるのは顕教で、飲みなさいこれ、分からなくともいいからこれ飲みなさい、病気が治るからというのが密教なのであると空海は書いている。

私は別に真言宗の人間ではないのであくまで自分の理解であるが、その「秘蔵宝鑰」の中に印象的な文章があって、人間は生まれ生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く、死に死に死に死に死の終わりに暗し 何度もくり返しているのであるが、何度も生まれているのに生きるということを分かっていない。何度も死んだのに死ぬということにも分かっていない。それが私達である。これは空海の人間観である。だから暗いのである。その生きていることも死ぬことも暗い世界なのである。無明である。そういう中で、喜びをもって生きることが出来るのが密教であるというのが空海の考えである。

それが実現できる、喜びを持って生きることが出来る、そういう仏教を求めて、学校を中退し山に入り求め続けて、分かれ道で何度もどこに行ったらよいか泣いて、ついに出会ったのが密教である。そして恵果先生から最高の物を全部貰った。その密教。

但しあらゆるものは密教の一つの現われに過ぎないのであって、何一つ否定するものはないというのが空海の考えで、それが「十住心論」に書かれている。なんとなくイメ-ジとして、ああそんな感じなのかなと分かって貰えたかも知れない。

「コメント」

 

空海は論理的な人なのだ。宗教家というと常に何かしら哲学的に余り人に分からないことをしたり顔で言っているイメ-ジだけど、空海は違うのかなという思いがしてきた。意外と分かり易いかも。簡単に言うのではないと叱られそう。それにしても儒教の評価のレベルの低さよ。