220616①「寺田寅彦の発見した創造性 前編」

寺田寅彦は明治時代から活躍した科学者であり、随筆家であった。高知県に実家があって高知県立文学館に寺田寅彦の記念碑がある。その文学館に寺田寅彦を紹介した文章があるので披露する。

寅彦の人となり

物理学者で文学者。物理学者としては初期にX線に関する研究を行い、学士院恩賜賞受賞。又震災に関する研究が多く 天災は忘れられたる頃来り 災害は忘れた頃にやってくる で有名。

又夏目漱石に出会い、文学的才能を開花させ、詩心と科学精神が混然一体となった優れた随筆を数多く執筆した。
文明批判や郷土ものにも卓越した文学世界を構築した と書かれている。

又のちに紹介するが、夏目漱石との出会いが大きくて、文芸から科学に至るまで非常に珍しい人であり、マルチの活躍をした人である。1878年~1935年。

寅彦の残した歌に、自身の性格が良く表れている歌があるので紹介する。

好きなもの イチゴコ-ヒ- 花美人 懐手して 宇宙見物       花美人→ジャスミン

後で話するように、自然に対して人間は謙虚でなければならないということもあるので、科学者として研究者としても宇宙見物というと星空を眺め宇宙について思いを馳せるという、傍観者として宇宙を眺めるだけではなくて、科学を楽しんでいるという意味が込められている様に思える。風流な感じもするし、寅彦は楽しんでいるようである。

寅彦はアインシュタインと同時代に生きている。実際にアインシュタインの講演を聞いたこともある。

夏目漱石との出会い

熊本の第五高等学校在学の時に出会っている。漱石は英語教員であった。英語を習ったというより、恐らく日本の俳句、特に俳句作りに対する精神とか、そういうものを強く影響を受けたのではないか。熊本で出会った寺田寅彦と夏目漱石であり、俳句・絵画・バイオリンというものが詳しく紹介されている。実際当時の漱石の写真などもあって興味深いのだが、漱石は一年間勤めた愛媛県松山の尋常中学校を退職して、明治29年1896年4月に熊本の第五高等学校に転じている。漱石の松山の時の経験が「坊ちゃん」に投影されている。数学教師とされているが、実際は英語を教えていた。

寅吉は第五高等学校二年生の時 熊本で明治31年 1898年に、20歳で漱石と出会った。

俳句とは一体どんなものですかと漱石先生に質問した。その時の受答えが中々素晴らしくて、漱石は次のように答えた。

俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇の要のような集中点を指摘し描写し、それから放散する連想の世界を暗示するものであるといった。だから非常に簡潔に、俳句というものを限られた言葉ではあるが、そこから発散していく想像力の世界を、見事に暗示した言い方で説明したのである。恐らく寅彦もその言葉に感銘を受けたと思う。

以降寅彦は俳句を作っては漱石に添削を受けるようなことがあって、ただ英語を習っていただけではなくて、そのような芸術に対する深い理解がその頃から育まれていたのである。漱石が亡くなった時、「漱石先生追憶記」というエッセイを書くが、その中で寅彦は次のように言っている。「時には先生と対座で10分10句を試みたこともあった。」つまり10分で10句作るということである。10句作ってから互いに見せ合うと言う事である。その時いかにも先生らしい奇抜な句を連発して、そして自分でもおかしがってクスクス笑われたこともあった。」10句連句の中の何か発想の飛躍とか、漱石らしい奇抜な

発想とかを二人で味わった場面が想像される。

科学と芸術の共通点 寅彦のエッセイ「科学者と芸術家」より抜粋

今日紹介する寅彦のエッセイの中でも、特に今回独創性とかもしくは創造性ということに関したエッセイとして「科学者と芸術家」というものがある。これは非常に素晴らしい本で、中に当時どういうことを寅彦が思索していたかという、その過程を見ることが出来る。最初の方に漱石先生の言った事ということで引用がある。

「漱石先生がかって科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において、共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。」と出ている。

一見科学者と芸術家というものは全く違う分野に住んでいたり、違ったことを目指している様に見えるかも知れない。しかしそんなことはない。その仕事を、自分がやりたいことを、嗜好 好奇心に一致させるという稀有な職業であるという点で良く似ている と漱石先生は言って、寅彦もその通りだと納得したのだと思う。

この「科学者と芸術家」というエッセイの中で次のように書いている。

「科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰り返すのみでは科学者の研究ではない。」更に次のように述べている。

「科学者の研究の目的物は自然現象であって、その中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見出そうとするのである。」

科学者の側からすると、何かを目的として人間が自然現象を観察して、その中から何らかの未知の興味深い事実を発見することが第一であり、その中に未発の新見解 恐らく法則性 を見出そうとする、その様な努力を科学者の仕事ととらえている。この様に考えればただ他人の真似ではいけない。

自分なりに新しい物を常に作ったり探したりするということで、これこそ科学と芸術に通じる創造性だということが出来る。

それでは科学においてどのような創造性が発揮されるかということを見てみよう。

科学における創造性 諸般の法則は美である 「科学者と芸術家」より抜粋

「古来の数学者の建設した幾多の数理的系統は、その整合の美においておそらくあらゆる人間の製作物中のもっとも壮麗なものであろう。」と言っている。これは恐らく数学の幾何学とか代数学とか創造の美ともいうべき法則が沢山あるがそれは例えていえば壮麗な建築物のようなものである。見事である。更に足したり引いたりすることが出来ない位美しいとしか言いようのないものであると感じたのであろう。特に数学ではそのような一度発見された真理と言うのは、何年経っても変わらないものだし、一旦証明されてしまえば揺るぎないものになる。これに対して寅彦は更に科学に対して

次の様に述べている。

「物理化学の諸般の法則は勿論、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。」だから物理や化学にみられる法則は勿論であるが、生物学でもそうだという。

その自然現象の中には調和的普遍的な事実がある。それは理性が満足するというだけではなくて、美感を刺激するという辺りが、これは寅彦でなくては書けない文章だと私は学生時代に強く思った。その時丁度生物学を物理学から何とかアプロ-チ出来ないかと考えていたことがあるので、当然ながら頭に浮かんだのが例えばDNAの二重螺旋である。二重螺旋というのは本当に調和的普遍的な事実の典型例だと思う。寅彦の時代には二重螺旋は勿論解明されては居なかったが、何故二重螺旋なのか三重ではどうしていけないのかという問題に対して、その螺旋がそれぞれほどけてそれぞれコピ-される、それが子孫に伝わる、細胞分裂が起きるということを考えた時に、二重螺旋というのは最も美的な整合性のある形であり、それはあらゆる生物に対して、普遍的に遺伝子として細胞の核の中にしまわれている。そのような法則を考えて、これはただ凄い世界だなと思うだけでなくて、美しいというか全てに共通した生物の枠組というものが初めて立ち上がってくる感じである。その時観察していけば、みんな違う形をしているかもしれない。色や形や大きさは見間違うが、しかしDNAという観点から見れば総て普遍的である。人間に限らずあらゆる動物や植物はDNAという遺伝子を持っている事実を考えれば、やはり畏怖の念を感じているのは自然かなと思う。

ニュ-トンの万有引力の素晴らしさ

更に次のように言っている。

「ニュートンが一見補足しがたいような天体の運動も、簡単な重力の法則によって整然たる系統の下に一括されることを知った時には、玲瓏(れいろう)たる天界が目前に現れたようなものであったろう。」と述べている。

いわゆる重力の法則、万有引力の法則というのは、天体が従っているだけではなくて、地上の物体も含めてあらゆる森羅万象が重力の法則に一括され、整然と従っているのである。これに気付いた時にニュートンやそれ以降の人たちは、玲瓏たる天界という位凄いことだと、そういう世界に我々は生きているのだということに、ハッと気づいたのかもしれない。

この様な言い方の中に、自然科学で何が大切で、どんな所が素晴らしいのかということが、言葉を通して我々に想像することが出来るのである。一方芸術家に対してはどのように述べているかと言うと、
「芸術家は科学者に必要なと同程度もしくはそれ以上の観察力や、分析的頭脳を持っていなければなるまいと思う。」

つまり芸術家だから感性が大切であり、観察や分析は科学者に任せとけばいいのではない。むしろそれ以上の頭脳が必要だと言っているのが面白い。寅彦自身は万有引力の法則が、画を描いたり詩歌を作ったり文学作品を書いて読んでという中で、やはりそのようなことを強く感じていたと思う。次に続く。

「如何なる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用がなければなるまい。」

例えばファンタジ-とかこの世にあり得ないものを作ったとしても、そこには心が複雑な事象をいかに鋭利な観察で分析し、それを又構築し直すかというそういう能力があって初めて、人に伝わるということである。さらに続けます。

「もしそうでなければ一木一草を描き、一時一物を記述するということは不可能なことである。」一木一草というのは、草木の事で一つ一つの文字通り言えば、一つ一つの細かい所まで気を抜かずに描いていくと言う事であり、一事一物というのは、それぞれの出来事、それぞれの感覚、そうしたものを逃さず文字にして伝えるべきことを伝えるということである。

削るべきところは削るということである。これは丁度ゴッホの絵の様に、自然にあるものを非常に謙虚に、しかも忠実に全く虚飾なく嘘のない形で描き続けるという、そうした芸術の凄さを例として考えることが出来る。更に見ていく。

「そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによって、その作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか」

これが寅彦の一つの価値観である。この文章は大正4年10月に発表されている。それからこの様なエッセイを纏めて、後に出版されるが、その本の名前が「万華鏡カレートスコープ」という訳である。

当時書かれた様々なエッセイは、折にふれて寅彦の随筆集として出版されていくが、その後は選集という形で、選集をした人がそれぞれの中からテーマを決めて、もしくは素晴らしい文だと思った文章を選んで、纏めていくことになるので、纏まった形で「万華鏡」として一つの本として手に取ることが、なかなか難しくなったが、又最近文庫化されて元の並びも含めて読み直すことが出来ると言うのは素晴らしいことだと思う。

この「万華鏡」という作品集の自分で書いた序文の部分を最後に一節紹介する。玩具の万華鏡 カレードスコ-トとルビが降ってありますが、「ぐるぐる回しながら覗いて見てみると色々の美しい形状が現れる。

この種の実態は畢竟この玩具の中に入れてある、ガラスの破片と同様なものに過ぎないかもしれない。一見雑多なもので色々な方向から見たバラバラなものかも知れない。」一寸謙遜して書いている。その後を続ける。

「しかしもし読者の脳裏に存在する微妙な反射鏡の作用によって、そこに何らかの対照的系統的な立派な映像が出現すれば幸せである。そう思って書物の名を「万華鏡」とする。昭和4年2月。」と書いている。対照的というのはコントラストである。

ですから丁度万華鏡というのは、まさに中に入ったビーズとかガラスの破片とか、きらきら光る色々な色のものが入っていて、それだけでは万華鏡としては見えないわけで、きれいに正確に組み合わされた反射鏡があって初めて像になるのである。だからその部分は読者の脳裏に任せようという訳である。

どんな芸術作品を作っても、それを鑑賞する側がいなければならない。そうするとその読んだ人見た人、聞いた人が、頭の中で何か組み合わせてその中にメリハリ、コントラストを作りながら、系統化して映像を味わうという訳である。それはもっと幸せとするという訳ですから、この様な本を書いてそれをどうやって世に問うかという所に寅彦としての文学性というか半生が現われていると思う。

 

寅彦の生い立ち

1878年明治11年東京市麹町区で生まれる。両親は高知県人。父の転勤で高知に9歳の時に帰る。そして高知県の県立尋常中学に入学し、少年時代を過ごす。そして先ほど述べた様に熊本の第五高等学校に入学。そこで18~19歳頃に漱石に英語を習っていた。ほかに田丸卓郎という先生がいて、数学と物理を学んでいた。田丸卓郎はローマ字分野でも有名で、日本語表記として当時明治時代ですから、色々な表記があった中で海外にもそれを発信するというような意味合い、それから日本語の厖大な漢字と仮名があるので、相当な文字数となる。文字という意味ではもう少し少なくする為にも、当時ロ-マ字表記がいいのではないかという提案をした。
それでローマ字の表記に決めたのであろう。そういう訳で寅彦自身も自分の本を丸々一つローマ字で書いてみたいという場合もある。今読んでみると非常に面白い本に「海の物理学」というものがあるが、ローマ字で書かれていて、我々は慣れていないとなかなかそれを読み取ったローマ字の音を日本語に当てはめて読むというのは一寸ワンクッションが入って、日本語で書かれているはずなのに、表記法が違うとだいぶ印象が違うなと学生時代に読んで思い出している。

その様にして第五高等学校は熊本大学の前身にあたるので、大学時代はそのように非常に文化的な環境で過ごすようになる。田丸先生のところではバイオリンを聞いたり、自分でも楽器を買っていたという機会があった様である。1898年明治31年、漱石に本格的に俳句を学ぶようになる。ホトトギスとか当時あった俳句の雑誌に投稿するとか、そういうようなことを重ねて明治32年1899年9月に東京帝国大学の理科大学物理学科に入学。ここは今の東京大学の理学部の前身である。そこで物理学を専攻する。物理学の研究を始めると同時に、漱石の紹介で正岡子規を訪ねている。だから丁度そういう意味では、物理学科に入って俳句も同時に文学作品も創作を続けていくというのは珍しいだろうと思う。

その様なことを漱石についてやっていた。そして1900年には漱石はロンドンに留学する。実は漱石は日本を発つ時と、日本に帰国する時、寅彦は両方とも送迎している。その年にはホトトギスに小品「クルマ」というものが掲載されて、正岡子規の賞賛を得るという風に書かれている。

それから健康を害して、高知県に療養に行ってというようなことがあって、高知県は寅彦にとって縁のあった場所という事になる。

漱石が帰ってきた時、新橋停車場に出迎えて、その後漱石宅に出入りするようになる。漱石の「吾輩は猫である」をはじめ様々な作品の中で、理学士という形でモデルとして寅彦は描かれることになる。

実際漱石は寅彦の研究室にやってきて、色々な装置を見せて貰って興味深く見学したという話が残っている位である。その様を実際の作品の中に描き込んでいたりする訳で、漱石の素材の一環として自分の弟子がそのように自分と全く違う土俵で活躍しているのを頼もしく思いながら話をしていたのであろう。自身は作品にも反映されるということで、二人の師弟関係は素晴らしいものであったと想像される。

寅彦は助教授の時にヨーロッパ留学している。1909年なのでヨーロッパでは丁度20世紀の物理学が誕生した頃で、新たな風を感じながら帰国して研究にまい進する。そのあたりで漱石が亡くなっている。非常にショックであったろうと思われる。

物理学の基礎というか総括的なものを執筆しようとしていたし、物理学の哲学的考察として「物理学説」という原稿を起こしているので、その後精力的な研究活動を続けていく中で、特に寅彦が最初に取り組んだのはX線を使った研究であった。学位論文というか帝国学士院から恩賜賞を受賞した「ラウエ映画の実験方法及びその説明に関する研究」というもので、ラウエ映画というのは映画を作ったのではなくて、X線によって結晶から反射されて返ってくるパタ-ンが、ちょうど強い所と弱い所が見事に美しい明暗のパタ-ンが、これをラウエパタ-ンとかラウエ映像とかそういう風に呼んでいた訳である。

いわゆる原子によって照射された光もしくは原子が整然としたパタ-ンを作るのである。

これは結晶というのが繰り返し構造を持っているために、その様な画像を作ることになる。

こうやって寅彦は物理学の研究をする傍ら、文学における創造性を発揮していたということになる。

 

「コメント」

なかなか難しい話であった。まず話の構成が整理されていないのでともすれば論旨不明快となる。更に活舌の悪さと当方の理解力不足が重なってしまう。話の内容は興味深いものなので

後編も努力して行う。