220629②「寺田寅彦の発見した創造性 後編」

関東大震災 大正12年 1923年

40歳くらいになって寅彦は物理学の研究をしていたが、時々健康を害することがあって、静養したりしていた。その時にメーテルリンクの作品を読んで、それに刺激されて随筆を書くようになる。それから油絵を始めた。
やはり創作的な物に対して興味を持って、自画像とか庭の風景を画いたりした。45歳の時1922年大正11年秋、アインシュタインが日本にやってきて各地で講演をした。歓迎会にも出席し大きな影響を受けた。エッセイの中にアインシュタインについていくつかの書いたものがある。ということで寅彦はその後いくつかの随筆集を発刊していくことになる。寺田寅彦という名と、吉村冬彦というペンネ-ムで書いたものの二通りがある。その翌年1923年大正12年9月に関東大震災。甚大な被害であった。精力的に震災の被害の調査を行っている。寅彦は特に物理学の中でも、X線の結晶物理学で大きな研究を続けていたが、その後震災などをきっかけに地球物理学の方に関心を持つようになる。例えば地球が持っている大きなエネルギー、大陸が動くとか、プレ-トがぶっつかって地震が起きるとか、今我々が知っている様な事が当時少しずつ明らかになってきていたのである。地震予知は今でも難しいが、当時も実際起こった巨大地震に対して、一体どうやってそういう自然現象に対処していったらいいのだろうか、このような破壊的な力に対して人間はなす術はないのであろうか、十分考えてやはり研究をしなくてはならないと思い至る。理化学研究所の研究員になり、それから地震研究所の専任になって、そのような世俗的な調査をしながら、どうやって人間はそのような自然災害に対し立ち向かうべきかという考察を深めていく。

災害は忘れた時にやってくる

その中で前回話した様に、災害というのは 災害は忘れた時にやってくる というのは、我々1020年程度で大体そういう記憶が生々しく残っているが、もっと時間が経って世代が変わったりすると、過去の記憶が継承されずそういうことは稀にしか起きないから、たぶん自分の世代や今生きている場所では起きないだろうと思ってしまい、又被害を被る事はありそうである。だから災害に対する備えは常に忘れてはいけない。
それからそのような大規模災害がどのように起きたのか、津波はどこまで来たのかとか、そういう事も含めて風化させてはいけないということをも寅彦は折にふれて発信していた。それは現在を生きる我々にも、自然に対する心構えとか、啓蒙とか自然に対する向き合い方を、改めて考えさせるものがある。

前回話した「万華鏡」というのは1929年昭和4年に完成した。その中には紹介した「科学者と芸術家」とか「物理学と感覚」とか、そのような科学から見た感性豊かな文章が綴られている。そのほかに「物質と言葉」とかいうようなものもあって、「自然界の縞模様」とか、後で紹介する「科学者と頭」など非常に興味深いエッセイが収録されている。

それから「科学に志す人へ」、「庭の追憶」とか、その様な沢山の随筆を書きながら、健康を害して58歳昭和10年に没。

講師が受けた影響

私が学生時代に接して非常に衝撃を受けた言葉は次のようである。

「サイエンスは一つの物です。物理学をやるにしても他の多くの重要な知識が必要です。自分の専門以外のことをちっとも知らなかった為に回り道をしたり、詰まらぬ損をすることは少なくありません。決してフィールドを狭くしてはいけません。」

この文は寅彦の全集が岩波書店から何回目かの出版だと思うが、全体を自分で揃えている時に毎月来るリーフレットの中に中野先生の「思い出の中から」に書かれていた。丁度私が物理学科の学生になろうとしていた頃で、寅彦は私の大先輩にあたる訳で意識をした頃であった。物理学に行って何をやろうかなと思った時に、この言葉に出合った。

サイエンスは一つの物である。物理学といっても物質だけやればいい訳ではない。決してフィールドを狭くしてはいけないという訳である。ということで私は生物学をやってみようと、この言葉に背中を押されて始めたのである。そしたら本当に面白かった。だから物理というとすべて物体という、生物とは違う死んだものを相手にしていると一般には見られているし、当時生物物理学といってもその境界の領域はそれほど大きく広がってはいなかったので、例えば生物の現象というのをいかに物理学のレベルで理解できるかと考えてみた時に、前回話したDNAの二重螺旋とかは生物学者が見つけたというより物理学者と一緒になって見つけたという。例えば二重螺旋を発見したフランシス・クリックという人は物理学者だし、その後精力的にその遺伝子の謎を解明したデルブルックという人も物理学者であった。そのように彼らは物理学者だけど、生命現象に興味を持ちなさいという機運を作ったのは物理学者シュレジンガ-である。「生命とは何か」という本であった。

私はそういう訳で物理学科に進みはしたが、「生命とは何か」という本を改めて読んでみると、非常に面白い。だから物理学の法則に縛られながらも、生物は非常に柔軟に環境に適応する法則を生み出している。その最たるものは人間である。

その例が目の前にあるのだから、人間だって物理学に向くのではないかと考え始めたわけである。

サイエンスの細分化 寅彦のフィ-ルドを狭くしてはいけないの意味→サイエンスは一つ

物理学もそうであるが、あらゆるサイエンスが細かい分野に分かれてしまっている。神経科学も脳科学という風に大きく言えば広い分野であるが、非常に細分化されている。例えば細胞レベルで研究している人、もしくは動物研究をやっている人、私の様に人間だけを対象に研究している人と分野ごとに大きく分かれていて、その間に接点が無かったりする。本当は同じようなことをやっているはずだが、直接自分の専門以外のことは余り知らないということだと、先程の寅彦の言葉の様に、回り道をしたりして非常に視野が狭い為に損をしているようなこともあろうかと思う。だから自然科学をやるという意味で、フィ-ルドを狭くしてはいけないということがどういう意味を持つのか。もしくはどういう分野の進もうとそれがサイエンスであることは全く変わらないで一つの物であるというのはどうしてなのか。それを考えてみると自然現象という自然の法則という摂理は、実は生物であろうと物質であろうと物理学の対象であろうし、根は同じものだということである。生物の法則は進化の法則なので、物質とは違うという辺りで線をひいてはいけないというのである。

こういう発想は一つの分野にいるだけでは得られないものであるし、寅彦の場合は更に科学の世界から芸術迄幅広く構想を出している訳だから、この様な人が言っている事は、やはり私に大きな勇気を与えてくれた。

「科学者と頭」  

科学者になるには    講師は絶賛

その時読んでびっくりしたエッセイが「科学者と頭」というものである。紹介する。

「頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗を恐がる人は科学者にはなれない。」注 別に全文あり。

これを読んでそうかと、失敗をしてもよいというか、失敗を恐がるようではそもそも科学の研究は、出来ないというものなのだとよく分かった。

この間、大学の講義とか先輩に話を聞いたりとかその中で、こういうことは全く出てこなかった。

科学者になるにはどうしたらいいでしょうと聞かれて、そうですね失敗を恐がらない事です という人も多分いないであろうが、私は 此の文章に接することが出来て本当に良かったと思う。

頭がいい人は先生には慣れても科学者にはなれない

当然学者になるには頭が良くなくてはいけないと思うだろうが、寅彦は次のように言っている。「頭が良くてそうして自分は頭がいいと思い、利口だと思う人は先生には慣れても科学者にはなれない。」

これはなかなか面白い。何故かという理由が次に続く。「人間の頭が力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸な自分を投げだし、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者になれるのである。」

つまり自分が頭が良いことで、買い被って自然が分かるかもしれないと思うのは、とんでもない思い違いだという。

当然人間だから頭の力には限界がある。それがよく分かった上で本当にこれ位しか分かりません、だからちっぽけなごく一部分だけでも理解したいという風に、自然に対してその声に耳を澄ますような態度でないと、本当の自然の姿は見せてくれないのではないか そのようなことを考えさせられる言葉である。

自然から何かを得るためには 頭は悪い方が良い

寅彦が徹底的に自然に対して謙虚であったことが、ここから分かるのである。やはり独創性を発揮するということで、

個性を伸ばせばいいということは全く無いのである。そのような相手に対して自分がそこから何かを得るためには、徹底的に失敗を恐れず教えを聞くという態度で接して、その中に何か得られる知性や法則を発見していくという事なのだという。更に次のように書かれている。「頭がいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合でも、その仕事が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みを付けて着手しないで終わる場合が多い。」確かに効率であるとか費用対効果であるとかそういう、もしくは最近はタイパと言われる位だから

時間をかけずに何か効果を得られれば良いとする風潮が非常に急速に強まっているが、果たしてそういう事で良い研究が出来るのであろうか。頭のいい人ほどそうした効率を求めるのである。結局自分でこういう事に手を付けても、これ位しか成果が得られないのだったら止めてしまった方がましだと判断してしまうので、結何もしないということになりかねない。

その中で科学の研究をやるうえで、つまり学者になるうえで頭がいいということは必要でも十分でもないという訳である。むしろ悪い方が良いと言っている。寅彦は次のように続ける。

「しかし頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われることでもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらずに進行していく。そうしているうちに、はじめには予期していなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。」と書いている。

つまり頭が良すぎると結局自分の頭の良さを過信して、本当は自然には人間の力が全く及ばない無際限な奥行き、そのようなものがあることを見て見ぬふりをしてしまうという訳である。だからむしろサイエンスは駆け抜けるということではなくて、勿論何か頂上があってそこを目指してレースの様に発見が行われることも確かにあったが、それだけが科学の目標では無い訳で、傍に咲いているような花に見とれて一寸道草を食いながらボッと考えているうちに、自然の違うように見えた側面が混然一体と法則に結びついたりするということに気付くとか、そういう発見というのが、また人間にとって貴重なものであると、だから科学と人間という関係性を考えるうえで、この「科学者と頭」というのは非常に面白い示唆を与えている。

「黒焼き」 科学者を識別するテスト

寅彦は更に「黒焼き」というテーマで次のようなことを書いている。当時敢えて炭焼きの様に真っ黒こげにして、
これは病気に効くと売られていた物があった。それに対して科学者が三通り考えられるというシミュレ-ションをする思考図である。「一体黒焼きが本当に病気にきくのだろうかという疑問が科学の間で話題に上がることがある。そういう場合に、科学者に色々の種類があることがよく分かる。

甲種の科学者は頭から黒焼きなんて効くものかと否定してかかる。蛇でもいもりでも焼いてしまえば結局澄人若干の灰分になってしまうのだから、黒焼きが効くものなら消し炭を食っても聞くわけだ、ざっとこういう風に簡単に結論を下してしまう。
乙種の科学者はそう簡単ににも片づけてしまわない。しかし、問題がまだアカデミックな顕教に懸けるにはあまりになまなましくて、ちよっと手がつけられそうにもないから、そういう問題はまずまず敬遠しておくほうがいいという用心深い態度を守って、格別の興味を示さない。

丙種の科学者になると、かえってこうした毛色の変わった問題に好奇的興味を感じ、そうして、人のまだ手を付けない題材の中に新しい大きな発見の可能性を予想して色々な想像をめぐらし、何かしら独創的な研究の端緒をその中に物色しようとする。

 

この丙が寅彦の独創性である。はっきり書いてないが、三つのパタ-ンの三番目が寅彦流の科学である。だから頭の良さで切ってしまうわけでもない。それから日和見的に遠ざけてしまう訳でもない。まあ一寸やってみる、面白いかもしれない。何かしら新しいことが見つかるかもしれないという好奇心を持つ。そのうえで明らかに非科学的な物であれば退ければいい訳である。むしろ人間にとって害になるような技術であれば捨てればいいわけで、全くそれを盲信してしまってそれに違いないというだけで、多くの人に勧めるというのは科学者として間違った行動である。
だから本当に病気に効くかどうかということはともかくとして、何か役に立つ何か側面があるかもしれないという好奇心を持つことも大切だという。この三つのパタ-ンはこれを識別するための簡単で手短なメンタルテストの問題として、この黒焼きの問題が役に立つのは面白いという風に書いている。だからある現代的問題を設定して、それに対して科学者がどういう態度をとるかということで、その三つのパタ-ンに識別できるという訳である。

アインシュタインに関して  エッセイ「アインシュタイン側面観」 具象世界の頼りなさと理学の必要性

寅彦は同時代アインシュタインがいたということも意識していて、そのようなエッセイも書いている。紹介する。

「相対性原理側面観」側面から見た相対性原理という訳である。「懐手をして宇宙見物」に繋がるようなものであるが、タイトルからすると非常にいかめしいので相当難しい相対性理論の解説とおもわれるがそうではない。特に最後に書かれている部分は私にとっては非常に研究とか、なぜ科学にふれるのかとか、そういうことを考えさせるきっかけになった文章である。

「時には人並みに花を見て悦び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月その他一切の具象世界のあまりに取り止めどころのない頼りなさである。どこをつかまえようもない泡沫の海におぼれんとする時に、私の手に触れるものが理学の論理的系統である。」

だから寅彦は前回から紹介しているように、文学や芸術の広いしかも素晴らしいものに触れて、自分のものにしようとして、研鑽し実際漱石とか子規の薫陶を受けたわけである。そういう中で確かに美しいもの、喜びのあるもの、芸術として素晴らしいものを得ることが出来たかもしれないが、しかしそこに突然の不安を感じるという辺りが寅彦の感性だと思う。確かに美しいものは美しいし、それを巡る心持というのは芸術的だし、人間として表現するというのは喜びであるが、何かどこか掴み取れない頼りない何か不足しているものをどこか感じていたのである。それは科学というものによって補うことができるという感覚である。更に次のように書いている。

「絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。こういう意味で私は、同じような不安と要求を持っている多くの人に、理学の系統の中でも殊にアインシュタインの理論のごとき優れたものの研究をすすめたい。」

ここで絶対的安住の世界というのは、恐らくニュートン的世界観で時間とか空間との絶対的に存在すると、人間とは関係のない所にそれはあると、揺るぎのないものだと いう考え方がある。それに対してアインシュタインはむしろ、そのようなものは実在している訳ではなく相対的な観察によって得られる関係性・法則性こそが、新しいものであるということを明らかにした訳である。それがその相対論の革命的部分であった。

しかしそれは相対的だからいい加減なものと言う訳ではなくて、それは非常に相対的な確かな世界観である。だから絶対的安住というのを求めていても、科学にはそれは存在しない。数学にはひょっとしたらあるかもしれないが、絶対的な静止系とか絶対的な観測者とかそういうものは宇宙にはいない。宇宙の中心すらない状態なので、我々は相対的確かな科学の世界に生きているのである。そのように考えれば我々の生きているこの感性の人生空間と、
宇宙のとてつもなく良く出来上がった壮麗な世界と、何か行き来しながら研究を進めていきたいと、それを人生を生きていくうえでの拠り所にしたいと考えているのである。

創造性とは

だから創造性というのは自分の考えで新しく物事を作っていく訳だが、これは当然ながらなんでも自分で作るという訳ではない。まわりで共有されるような有限な物を組み合わせることに他ならない。つまり新しいくみあわせをいくらでも無限に生み出していって、前回の寅彦の言葉を使えば、未発の新見解を生み出すということになる。これは芸術における新見解かも知れないし、新法則かも知れない訳である。だから我々のこの言語を生み出す能力自体がチョムスキ-の言うような創造的そのものであるので、そのような知能を使って判断し思考を深め、新たに新しいものを創造していくという訳である。

このように考えて行けば、科学者と芸術家の生命となる所は創作であるという言葉が際立ってくる。

芸術と科学は一つの物である

つまり我々、これは科学者もしくは芸術家という職業を持っていなくても、誰でもがその両方の世界を味わうことによって、その感覚を自分のものとして生活の上に反映させて、より充実した知的世界を作ることが出来るのである。この様に是非考えて頂きたい。

その時に人間の創造性の拠り所となるのは何だろうかと考える時に、私はチョムスキ-が提案する普遍文法なるものだと思っている。普遍文法というのは言葉をどんどん新しい言葉、つまり文を作っていくという意味でその源泉となるものである。ですから入出力に対しては常に中立で新しい組み合わせを際限なく生み出すことが出来るエンジンのようなものである。例えを変えて言えば、丁度人間の色々な言葉の要素を組み合わせて、ただバラバラで単語だけ言っていてもそれは文章にはならないが、それを見事に建築物の様にピタっとジグソ-バズルのようにはめた時に構造が出来て、人にキチンと伝わってしかもその感性を共有することが可能である。その様に新しい組み合わせを産むという意味では確かに、普遍文法の働きというのは、万華鏡に例えることが出来る。色々な中でビーズは色々な色で色々な形になるかもしれないが、例えば五角形に組んであればすべて正確に五角形に見えて、その中で無限のバリエ-ションを生んでいるということになる。だから人間というのはこうやって創造性を毎日の様に味わうことができて、寅彦の歌にあったように 懐手して宇宙見物 というように、自然を楽しみながらその科学が生活に少しでも一部に取り入れられているとこんなに楽しいということが分かってくるのではないかと思う。

寅彦を通じて芸術と科学とその両方が分かってくるのだから、寅彦自身の生き方がそうだったが、そこに垣根を作らない、フィールドをせまくしない そういう意味ではサイエンスは一つの物で、芸術と科学が混然一体となった一つの物だという風に、我々は考えることが出来るのではないか。

普遍文法とは

それでは普遍文法がどうして新しい組み合わせを生むような原動力なるかということを説明する。

言葉であると音声を聞いたり、文字を読んだり、手話を見たりして、その入力した情報を分析し自分に解釈を与えている訳であるが、その時に普遍文法というのはそれを自分で理解しやすい形に組み替えて、そして新たに合成して自分の言葉でまとめて発信する。声に出したり文字に書いたり手話で表現したりして、自分の考えを作っていくわけである。だから我々は決して入力された情報をそのままオウム返しにコピ-し、そのまま出しているのではない。自分なりに咀嚼して理解し、そして表現するという所に人間の言語の本質的な働きがある。芸術も全く同じで、自分が見たものを解釈しそしてそれに影響を受けて、自ら新しい表現で新しい作品を生み出すという所に、人間の創造性があるという訳である。ですから普遍文法というのは恐らく言語だけではなく、芸術の様々な所で原動力となるような働きを持っていると考える。私はそれを明らかにする研究をしている。恐らく音楽でもその普遍文法なるものは共有されていて、同じ場所で使用されているということを最近見出したので、そのような研究で将来人間の創造性の源泉が明らかになると思う。

 

「コメント」

 

ムズカシ。初めて聞く言葉が多い上に活舌が悪く、話すスピ-ドが早いので聞き取るのに難儀。そして字面は分かっても今度は意味が分からない。でも寺田寅彦が言ったことで頭が悪い方がむしろ良いといったのは卓見。ある意味私はそう思う。努力するのは違う意味で頭が良い証拠である。