詩歌を楽しむ「啄木再発見」 三枝 昂之(歌人) 

                     歌書「前川佐美雄」「啄木-ふるさとの空みかも」

13年1月18日()  それを仕遂げて・・・~野望と挫折

・釧路で新聞社をやめて函館に戻る。東京に出たいとして、友人に母と妻子の面倒を見てもらうこと、上京の資金を借りる。/3ヶ月で小説家として成功するとの目算。

・その時明治41年は短歌会にとって大切な時期。伊藤左千夫の「アララギ」の創刊と明治30年代をリ-ドした与謝野鉄幹の「明星」の廃刊の年。ロマンチィシズムから写実主義への変化。

・与謝野鉄幹宅に暫く滞在。

 鉄幹に連れられ、森鴎外の「観潮楼歌会」に参加。メンバ- 森鴎外、佐々木信綱、

  吉井勇、与謝野鉄幹、北原白秋伊藤左千夫とそうそうたるメンバ-

・次に盛岡時代の友人の金田一京助の下宿に転がり込み、小説を書き始める。この時の言葉「夏目漱石の虞美人草程度なら一ヶ月で書き上げてみせる。」しかし書けども採用されず、森鴎外に推薦を頼むがダメ。

・挫折  自分の才能を信じていただけに挫折の底も深かった。この頃の日記にそれが伺える空虚な言葉がある。

・短歌の再開

 突然短歌を作り始める。3日間に281首。短歌の大量生産。歌漬けの日々。

 この時の歌 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」  

   この歌は歌集「一握の砂」の巻頭の歌。

         「たわむれに母を背負いてそのあまり軽さになきて三歩歩まず」

         「あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけたまう母の白髪」

  以下の与謝野鉄幹の真似をしていた頃の歌とは大いに違う。

 「果ても無き荒野の草のただ中のドクロを抜きて赤きゆり咲く」→明星に初めて出た歌

 「血を染めし歌をこの世の名残りにてさすらいここに野に叫ぶ秋」

 

・この三日間の歌は

    大きい挫折感の中で母を恋しく懐かみ、愛情に泣いている。

    明星の時代と違って、実際の生活の中で感じたことを歌っている。生活感情が素直に出ている。

    ありのままに歌う啄木の歌は、失意挫折の中で歌うことで自分を支えていた時に出来た。

    大量に作るときには、おどろおどろしい化粧した歌を作る余裕などない。すぐそばにある素材を使わねばならない。

    このことは我々にヒントを与えてくれる。

 

・アナタたちが自分の歌を変えたい時には

「とにかく短期間に大量の歌を作ること」これが自分の歌を変えるひとつの方法である。今までの自分の持っているマニュアルでは、間に合わないので、自分の幅を広げざるを得ない。

・歌漬けの日々には、化粧の濃い手間のかかる明星流の歌は作っていられない。

・啄木のこの挫折が明星流の歌から、ありのままに自分を歌う世界に変えた。