詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人 一茶 二松学舎大学教授 矢羽 勝幸
② 130412 また愚にかへる~一茶の生涯
一茶の生涯を五つの時期に分けて見てみる。
「一期」誕生~14歳
宝暦3年(1763年 江戸中期)誕生 信州柏原(今の信越線 黒姫駅近く) 信越国境の町 生家は村の中の上 一茶というと貧乏というイメ-ジだが小作人ではない自立した本百姓
生まれた環境のポイント
① 豪雪地帯 ②田舎だけど宿場町で江戸文化が入ってくる。③村中 浄土真宗が盛んな地域
・継母と折り合いが悪い 3歳の時生母死去 継母との諍い 家に居られなくなり江戸に奉公に出る 15歳
「二期」15歳~29歳 青年期
奉公先は不明 20歳で葛飾派の俳諧グル-プに属する 地方俳人が多く田舎風 葛飾派は江戸を中心として千葉・茨城に根を張っていた 25歳信州佐久地方から出版された地方版の俳諧集「真砂」に初筆
初筆「一茶」として出る。初筆とはプロ俳諧師見習いの位置 俳諧師を目指していた 山口素堂の一派 山口素堂 「目に青葉山ホトトギス初鰹」で有名
「三期」30歳~36歳 壮年期
プロになる為に7年間の「西国行脚」の旅に出る 前期 九州 後期 四国・京阪神
行脚の収穫 ①諸派の俳風を吸収する ②紀行俳句集出版 2冊「旅拾遺」「さらば傘」
「四期37歳~50歳 中年期
江戸在住 「2世二六庵」を名乗る これでプロの俳諧師となる しかしこの庵号は三年で止める 原因は葛飾派内のイザコザ 葛飾派を見限って夏目成美のグル-プへ移る 夏目成美は蔵前の札差で金持ち これに経済的・俳句的にも世話になる
・ここでは通信による月並み(月例会)として不特定多数の俳句指導をしていたが、これに反対して直接指導を目指し
地方巡回に出る。このことは芭蕉も「俳句の金儲けの道」で邪道と主張していたこと。
・巡回指導したのは①千葉内房 ②水戸地方
・この時期に父死去 「父の終焉日記」 を著作 私小説の走りと言われる 弟との遺産争いのスタ-ト
・数年後財産折半の合意が出来るが、その条件として賠償金請求 これが後年一茶が「欲深い」と言われる所以となる。
・この頃経済的には困窮していたが、江戸では俳人としての評価は高かった。「俳人番付」 5人に入っている。
・人気は高かったが経済的には困窮 当時の一茶評 ①物ぐさ和尚(浄土真宗信者ゆえ) ②風流奇人
いよいよ困窮し江戸を引き払い信州に帰る。
「五期」51歳~65歳 老年期
・帰郷後、弟と和解し家/土地を入手 結婚(一茶 52歳 妻 28歳) 子供4人生まれるが次々と死去 娘の死をテ-マとした「おらが春」を著作 すぐには出版されず、死後となる。
・晩年の一茶は病気がち 悪性の腫れ物 2度の中風
・最初の妻の死後、2度目の結婚 3ヶ月で離婚 3度目の妻を64歳で貰う。結婚後1年で一茶死去。 その時妻は妊娠中 死の翌年出産 この子が以来家を継ぐ。
色々と苦労した人