詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人 一茶    二松学舎大学教授 矢羽 勝幸

 

    130405 一茶の思想と文学~「あるがまま」の尊重

矢羽 勝幸   1945年 長野県出身 國學院大学卒 高校教師を経て

          二松学舎助教授→教授    一茶研究家

一茶   江戸後期の俳人 俳諧寺()  信濃柏原の人 15歳で江戸に出る。俗語・方言を使い、不幸な経歴からにじみ出た主観的・個性的な句で有名。晩年は郷里で逆境のうちに没。

 

まず一茶俳諧の特徴を述べる。

    一茶の評価はいつから高くなったか?

・一茶没後「書画価格録」に俳諧部門で芭蕉・千代女・蕪村・一茶・井上士朗・宗久・大島蓼太の名が出ている。

没後に評価が上がってきた。

・三森 幹雄(江戸/明治の俳人) 「俳諧名誉談」で(芭蕉死後、蕪村・士朗・一茶を三傑とす)と言っている。

    一茶の言    俳句は表現より心の誠の方が大切である。  まず作者の本音の方が大切。

世の中よでかい露から先(まず)おつる  霧のことなど詠んでない、まず偉い奴からダメになるという。弱者の味方。

    伝統的・貴族的遊戯の否定  雪月歌(単なる叙景歌)の否定 信州出身なので雪を嫌う

雪行け行け都の馬鹿(たわけ)が喜ばん 俺は雪は嫌いだが、都の馬鹿な風流人が待ってるぞ、行ってしまえ

    傍観者ではない  人生詩人で、弱者や底辺の人を詠む。

木枯や地びたに暮るる辻諷ひ(うたい)  木枯らしの寒い中、夕暮れまで芸人が歌ってるな

    農業詩人であった  自ら農民として働いた

いくばくの 人の油よ 稲の花   農民が額に汗して働く米作り の苦労を詠んだもの

古典を見ていると、一部の特権の人達の物であった(枕草子、源氏物語・・・) 農民の心を詠んだ文学はない

    権力者をからかう、揶揄する 権力者(大名・武士・公家・高僧・・)を批判する

ずぶぬれの 大名を見る 炬燵かな  自分はコタツに入っていて、威張りくさった大名行列 馬鹿だな・・・ずぶ濡れだ

    現実を直視する  政治的・社会的問題

た(田)のかり(雁)や さと(里)のにんず(人数)は けふもへる(減る)  雁は増えるが、里の人の数は減っていくなあ

農民は食えないので出稼ぎに行く 貧しい信州人の出稼ぎは(ムクドリ・オシナ)と蔑視された。

    あるがままの尊重  自然を尊重した

世に住めば無理に溶かすや角の雪   世の中の付き合いで、家の入口の雪を溶かすことになる 余計なことだ

子供俳句を多く作った  とにかく子供が好きだった あるがままに生きているのは子供だけ

  年問えば 片手出す子や 衣替え 5歳の意  

⑩動物の句を多く作った

  嗅いで見て よしにする也 猫の戀  相手の猫の臭いを嗅いでみて交尾するのを止めにした   気ままな猫の描写 ユ-モア作家でもあった

⑪自己の境遇を詠む   この時期まで自分のことなど詠んではいけないことになっていた 私小説的作家である

  夕燕我には翌(あす)のあてはなき  俺には明日がないなあ 

  一茶は不幸な境遇(貧乏・独身が長い・家族に恵まれない・子供を次々失くす・・・)

⑫浄土真宗を信仰  柏原村、両親と門徒 真宗は師弟関係なし・上下関係なし この事を信条とした。

  他力本願を信じ、いつも念仏を唱えていた。 俳諧の号を俳諧寺とした。

⑬在家であるべきという。 意味は在俗でなくてはならない・俳諧のプロになってはいけない。現実を捨てないで、俗の心を持ち続けるべきである。

⑭庶民の心を詠む  庶民の言葉による庶民自らの俳諧を志した。  俗語とか方言を俳句に取り入れようとした

・「西国紀行」の書き込みに(子供の歌う子守唄のカタコトや、方言混じりの海人の会話を作品に出来ないか)  

   ・わび、さびではない。       当時芭蕉の真似が流行→蕉風という    わび、さびが俳諧と思われていた。 

   ・わび、さびでは庶民のこころは掴めない、目指したのは民衆に密着した文学であった。