151227文化講演会「越後路の芭蕉《おくのほそ道》」 魚住 孝至   放送大学教授

「俳句と俳諧の違い」

 俳諧は俳諧の連歌の略。連歌は一首の和歌を上の句と下の句に分けて2人以上で詠みあい上の句と下の句を次々と

鎖のように続けて行く貴族の遊びであった。俳諧は使える言葉などに制約が多かった連歌を滑稽味のあるという意味で

 一般庶民でも詠めるように制約を緩めたもの。俳諧の最初の一句を発句という。

 俳句は明治になって短詩系文学の革新を唱えた正岡子規が俳諧から独立させた発句の新しい名称として名付けたもの。

 

「江戸時代の俳諧」

和歌及び連歌はいわゆる歌語を使うのが原則であるが、金持ちの旦那衆の間で俗っぽい言葉で可笑しさを強調する

俳諧「俳諧の連歌」が流行した。芭蕉も言葉遊びとしてスタ-トした。

(猫の妻(へっつい)の崩れより通ひけり)  芭蕉

  『伊勢物語』5段、「むかし男ありけり。ひむがしの五条わたりにいと忍びていきけり」で始まる話には、男が「わら わべのふみあけたる築泥<ついじ>のくづれより通ひけり。」というわけで、女のもとに門を入らず築地の破れから通った話が

出てくる。この句は王朝文学の主人公を猫の妻に置き換え、破れ築地をへっついに変えることで笑っている。

 ニヤリとするのは教養のある人。

    (あら何ともなや昨日は過ぎて河豚(ふぐと)(じる))  芭蕉

河豚を食うというからには、命に別状のあることも覚悟の上でなくてはならない。しかし、翌朝目覚めて昨日と同じ気分であれば、ほっとすると同時に、昨夜の多少の思いつめはばかばかしくもなるものである。

 

「芭蕉の俳諧からの脱皮」

芭蕉は37歳の時に日本橋より深川に隠棲し、俳諧をそれまでの単なる言葉遊びからもっと古典として残るような文芸に高めようとした。西行・兼好といった人たちに倣って。当時芭蕉が傾注していたのは老荘の荘子で、元禄時代の金権主義とは違う価値を見出そうとした。よって漢詩(杜甫・李白)、和歌(西行)、連歌(宗祇)を勉強し違う世界を作ろうとした。それが深川に芭蕉庵を作った動機であった。座興の遊びから文芸を志向したのである。

  (()の声波を打つて(はらわた)氷る夜や涙)

櫓の音が、波音のまにまに聞こえてくる。耳を澄ましていると、腸も氷るような思いがしてきて、いつしか涙が流れている。

  (世にふるも更に宗祇のやどり哉)

芭蕉が尊敬している宋祇の句、「世にふるも更に時雨のやどりかな」から「時雨」を「宋祇」と置き換えただけ。

世の中に生きて行くのは宗祇のような生き方である。

(芭蕉野分(のわけ)して(たらい)に雨を聞く夜かな)

茅舎に秋の雨が降ってここかしこから雨漏り。外の芭蕉葉にうちつける雨音と、盥に落ちる雨水の音が一層侘び住まいを引き立てる

 

芭蕉は深川に転居してから句の調子とが全く変わった。前の言葉遊びから無常観を漂わせながらの風情となった。侘びに生きようとしている。

芭蕉は51才で没するが、それまで旅の人生となる。旅で句を読むと共に紀行文を書く。

 

「野ざらし紀行」

貞享元年(1684)秋の8から翌年4にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地でもある伊賀上野への旅を記した

俳諧紀行文。「野ざらし」は、旅立ちに際して詠んだ一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」に由来する。発句が中心となって文章はその前書き、詞書(ことばがき)としての性格が強く出ており、やがて文章に重きを置いた「(おい)小文(こぶみ)」を経て句文が融合した

おくのほそ道」へと発展する嚆矢(こうし)としての特徴が現れている芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、江戸から東海道伊勢へ赴き、伊賀上野を経て大和国から美濃国大垣名古屋などを巡り伊賀で越年し、京都など上方を旅して、甲斐国を経て江戸へもどった。この頃芭蕉は新しい作品がどう受け止められるか不安であった。

  (野ざらしを心に風のしむ身かな)

旅に出たがいっそ野ざらしのしゃれこうべになって朽ちても構わないという決意だ。それにしても風が見にしむなあ。

 

「おくのほそ道」

慕っている西行の足跡を追って東北を辿る旅となる。ほとんどの旅程で弟子の曾良を伴い、元禄2年(1689)に江戸深川を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って元禄4年(1691)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して美濃大垣までが書かれている。大垣に到着後近江で2年間休息、その時に言い出したのが

「不易流行」→「時の流れと共に全て変わっていく。そして移り変わっている時々に誠実に対応することで変わらないものが浮かび上がってくるものだ」という考え方。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、絵の雪舟における、茶の利休において感動するものは一つなり」中世の巨人たちの侘びの伝統に自分も繋がっているとした。→後世に残る不易の文芸にしたいと熱望し俳諧集「猿蓑」を作り、これを俳諧の古今集の役割としようとした。

その後江戸の芭蕉庵に戻り「おくのほそ道」を執筆し元禄7年に完成したがその年の10月に没。おくのほそ道は、旅から4年後に完成したことになる。

   ●構成

  ・旅立ち      江戸~白河関  人生は旅であるとして「月日は百代の過客にして~」でスタート。   

  ・みちのく     白河関~平泉

  ・出羽       尿前~象潟

  ・北陸       杜松の関~山中温泉

  ・旅の終わり   越前~大垣

   ●おくのほそ道の意味

  西行の和歌を後鳥羽上皇が「歌の中の細道に息づいている真の風情だ」と誉めた言葉からの引用と思われる。

   ●おくのほそ道のフィクション

  ・市振の遊女 

   西行と遊女の話の故事を引き、又物語としての味わいを出す為と運命のはかなさを表す。

   ●西行の和歌の引用

  「終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」

 

「芭蕉が句を作る時」

●その時その場に行って感動して作っている。「物の見えたるの消えざる内に詠むべき」

●作品を作ろうと思ってはいけない。作品はなっていくのであって作るものではない。その時その場でつくったもので

なければならない。

 

「まとめ」

芭蕉の作品を読むことによって我々の中に、芭蕉の思いが蘇ってくる。不易というものに芭蕉の句を味わいながら思いを致すべきである。

 

「コメント」

作品の解説ではなく、作品を通しての芭蕉の考え方の講義。これはこれで良し。