151231文化講演会「1960年代の司馬遼太郎」    作家 関川 夏央

 

「坂の上の雲」は1968年(昭和43年)の春から1972年夏まで産経新聞に連載された。4年半である。司馬遼太郎40歳代の全てを使った作品である。

「1960年代はどんな時代であったか」

先鋭的な学生や労働者が革命的な気分に浸った時代であった。1969年まで大いに盛り上がったが、この年から凋んでセクト主義で党派に分かれ激しく内部抗争に入る。1972年の連合赤軍の浅間山荘事件でそのピ-クとなる。日本の

警察は一発も撃たず犯人を殺さないことで世界に有名になった事件である。この時のTV視聴率98.2%、国民全部が見た。翌年14人のリンチ殺害が判明、学生贔屓であった世論は急速に冷えた。

日露戦争→ 1904年(明治37年)~1905年(明治38年)日本と帝政ロシアが満州、朝鮮の統治権を争った戦争。旅順包囲、奉天大会戦、日本海海戦で日本勝利しポ-ツマスで講和条約。

当時、日露戦争は日本帝国主義の一歩といわれ、侵略の第一歩と歴史界では捉えられていた。このような時期に日露戦争を舞台にした小説を書くという事は勇気のいることであった。場合によっては左翼のテロに会う危険もあった。所が学生たちは司馬遼太郎の小説のファンであった。それを「土方歳三を主人公にした「燃えよ剣」で説明する。これは反革命の

小説である。

土方歳三が新選組隊士として革命家たちを暗殺していく話なので学生たちが好んで読んだのは合理性に欠けるが、土方が明確な目標を持ち、組織目的に忠実に徹していることに共感したのである。大きな組織ではなく160名程度の新選組がその的のために活動する。これを土方は鉄の規律と指導力で進めて行くという物語である。最後は函館戦争で戦死するが、明確な目的を持ち、最後は戦死というロマンチックな場面を当時の青年たちは受け入れたのである。逆に言うと

当時の革命的気分というのはその程度のもので、革命とは関係なく情緒的なものであった。これを司馬遼太郎は見通していたのである。

 

(軽い国家) エッセイ     かなり反革命的言辞である。

我々日本人はこの軽い国家をどう考えたらいいのか。その中でどう生きて行けばいいのかよく分からない。東大構内で数多くの小団体が入り乱れて殴りあっている。国家はそれを眺めている。日本史上これ程軽い国家を持ったのは今が

初めてである。国家が余りにも軽いので学生たちはやる瀬ないのである。やる瀬なさの余り暴れているのか。それとも

別のもっと重い国家が欲しくてそれを暗闇から引っ張り出してくる為に駄々をこねているのか。この辺りは学生指導家たちの記事を読んでも明快には分からない。学生たちは今の国家権力は重たい、凶暴で鉄壁であると言っていたが私はそうは思わない。この時代の国家が一番軽い。だからこそ逆に学生たちは重い国家、例えば中国共産党政権の様な国家を求めてしまったのではないか。

 

「江戸幕藩体制の再評価」 

司馬遼太郎にとって特徴的なのは、幕藩体制を高く評価するという事がある。当時は歴史学者たちの言う、「日本はアジア的停滞、アジア的専制の下で塗炭の苦しみにあって来た」というのが定説とされ、司馬遼太郎はじめ我々はそれに疑問を感じ悩まされてきた。かなりの人が首をかしげていたが、多数派のいわゆる進歩的文化人なるものが主張したので直接的反論はし難かった。

所が文化人類学者の梅竿忠夫が提唱した「文明の生態史観」で述べたように幕藩体制という日本を再評価すべきという論に司馬遼太郎は強くひかれた。それの一部を紹介する。

大陸アジアというのは牧畜民を中心として新たな民族が湧きあがっては、定着した農耕民の文明を壊し破壊し尽くし、

その後にそれら牧畜民が滅びた後で又、農耕民が文明を作り直すという事の繰り返しの歴史にすぎなかった。その意味で考えればヨ-ロッパも同じである。我々がヨ-ロッパを崇めたり恐れたりする理由はよく分からない。ユ-ラシア大陸の西の端である英国なども、或いは東の端である日本も海を隔てているだけで暴力的な多民族の破壊的行為から免れ得た。その意味で英国と日本はよく似ている。同時に大陸のこの荒々しい文明破壊行為に対して恐れ入る必要はない。

逆に言うと海を隔てて大陸に距離を置いている日本で幕藩体制という優れた制度を作った日本を再評価すべきである。

 

この様な考え方は日本人に大きな刺激を与えた。それまでは、又今でもどういう訳かヨ-ロッパを非常に崇拝する人々が多いが、必ずしもその必要はないという考え方が日本人の一部に生まれたのである。

考えてみれば欧米がいいというか、西洋文明が優れている風に考えるようになったのは明治の後半からである 

その理由は日本が産業革命に遅れたからである。

逆に言うと江戸時代には産業革命と軍備拡大が無かった。軍縮のみを行った不思議な270年であった、世界でもこういう国はない。軍縮を行いながら平和を維持しながら70~80の藩(支藩を除いて)を構成要素としてこれと緩やかな連邦制を組んだ国は世界史上にもない。

 

「坂の上の雲執筆の発端」

司馬遼太郎はある時、正岡子規に興味があったので伊予松山に行って生家を見学した。近くに秋山家という家があって、そこは兄が陸軍軍人、弟が海軍参謀という事に気づいた。下の弟と子規は幼馴染、大学予備門まで一緒。これは藩の

文化がこういう人たちを育てた、領主松平久松家15万石の文化である。この藩は戊辰戦争の時には賊軍となり土佐に

占領される。ここに明治社会の面白さがある。明治国家というのは官軍側が官僚・政治家となって体制側であり、賊軍側は教育・軍隊・文学という分野に進出した。この三つの分野は全て賊軍側であり、幕府直参の子孫であった。例え賊軍側は帝大に行っても官僚として大成できなかった。いわゆる薩長土肥である。司馬遼太郎が発想したのはこういう江戸時代の藩の豊かな教育と恩恵を受けて成長し各界で活躍した人々であった。

 

「日露戦争史と司馬遼太郎」

1950年司馬遼太郎がまだ産経新聞の記者時代、その頃から日露戦争に興味があり、又この戦争がちゃんと評価されていないことに疑問を感じていた。それが何故かという事を考えることに情熱を燃やした。そして参謀本部作の「日露戦争史」を読んだがその意味・意図・解説が全然理解できないし辻褄が合わないのに気づく。後で分かるが制作の途中で、

戦争当事者が自分の都合のいいように、失敗は覆い隠し成功は誇大に口を出したからと判明。この結果、実態とはかけ離れ読むに堪えないものになったのである。

戦史は正確にちゃんと書かないと次の戦争の役に立たない。何故第二次世界大戦や日華事変がうまくいかなかったかの遠因はここにある。勝ったのだからまあいいだろうと書いたとしたら大きな間違いである。勝ち戦といっても7勝7敗、

千秋楽で相手が勝手に転んで漸く、勝ちが転がり込んだようなものなのだ。

 

「日露戦争と国民」

最後には国力も限界に達し、政治家も軍人もとにかく停戦をしたかったが、反対したのは国民であった。これは不思議な事でその後の日本社会の変質の発端は勝利の後の日比谷暴動である。領土と賠償金を取れという国民の声である。煽ったのは新聞、ジャ-ナリズムで特に東京朝日新聞が悪い。「バイカル湖まで取ろう」がスローガン。

よく言われるのは「いつも国民は正しい」と。この時は情報不足とマスコミに煽られて無知蒙昧な大衆になってしまったのである。投票によってナチスが第一党になったのはいい例である。我々はこの事を肝に銘じておかねばならない。

 

「日露戦争史の地図」

司馬遼太郎にとって何の役にも立たなかった日露戦争史であったが、注目したのは地図。是には嘘は無かった。戦闘図、作戦の経過図。司馬遼太郎は、一切戦争史は参考にならないが、付録の地図を完全に読みこんでこれを小説化しようと考えた。

いわば地図の文学化で、事実の展開であり真骨頂はここにある。人々に読んでもらう様に工夫したのが司馬文学である。

 

「地図の文学化」

このやり方は今も受け継がれているが、一般の人々は情緒とか苦悩とか心の内面だけが文学の対象と考えすぎている。

大岡昇平「俘虜記」「レイテ戦記」、村上冬樹、太宰治などもこの系譜である。

 

「坂の上の雲の評価」

良く出来た小説かどうかというと近代文学的に言うとそうは言えない。破綻があるというのは酷であるが、彼自身も悩みながら書いている。一つの戦争を一つの社会集団の群像劇の青春小説として描き、又政治小説の側面も持たせようとしている野心的な試みであるが。子規を主人公の一人として取り上げているが、彼は日露戦争の前に死んでしまう。それなら子規の大学時代以降の友人である夏目漱石を加えれば良かったのではないか。

  

「野木希典」 

詩人・陽明学徒・有能ではない指揮官・武士の精神を持った人。司馬遼太郎は好きなのか嫌いなのか分からない書き方。

司馬遼太郎は陽明学の知行合一が嫌いで、野木のスタイリストな面、ある意味の自己顕示欲、無能さも嫌いであったが同情はしている。

例えば旅順要塞攻撃の時、日本軍の装備不足、情報不足、特に地図もなかった。結局威力偵察によって兵士の血と命で地図を書くしかなかったのである。しかし水師営での敵将ステッセルとの降伏式での野木のフェアさには一目置いている。

しかし司馬遼太郎は基本的には陽明学徒が嫌いで、山鹿素行・大石内蔵助・大塩平八郎、新しい方では三島由紀夫。

思想信条を前面に押し出してそれが人生そのものの如き振る舞いを嫌悪した。不思議なことに吉田松陰・河井継之助などには好意的で小説にも取り上げている。とにかく陽明学徒は行動が過激で短気なのである。

 

「まとめ」

1960年代に「坂の上の雲」を書くのには勇気を必要とした。世の中の流れとか、分かったようなことを連発する学者、ジャ-ナリズムに惑わされず自分の頭で考えることが大事であるという事を司馬遼太郎及び「坂の上の雲」は教えている。

  

「コメント」

私が古代史にのめり込むきっかけは「街道を行く」の第一巻「湖西の道」である。それまで週刊朝日に連載されていたこのシリ-ズを読んで当初は余りいい印象は持たなかった。「ではなかろうかと思われる」「と思うのは不思議ではないと言っても過言ではない」この様なすっきりしない、断言しない文体がどうにも我慢がならなかった。しかしNHKTVの放送が田村高広のナレ-ションと妙にマッチして以来病み付きになった。今は家内にそれは司馬遼の受け売りでしょうと

まで言われる。 

「坂の上の雲」は勤め人の初期読んだが、この頃はブ-ムでサラリ-マンの必読書の一つであった。時代が何せ

「前へ前へ」。

今回の講義は、話の筋があっちに行ったりこっちにいったりで纏めにくかったけれど、作家の話というのも私見が多くて面白い。学者ではこの様に勝手気ままにはいかない。

幕藩体制への評価、藩ごとの文化に敬意を払っている司馬遼太郎の姿勢に強く共感し、もう一度今読み返してみよう。