190427④「福原への遷都」其の一

前回の「治承の辻風」の四ヶ月後に「以仁王の乱」が起きる。初めての公然とした反平家の武力行動であった。

「以仁王の乱」

後白河天皇の皇子。源頼政と謀り、全国の源氏に「以仁王令旨」を出して、平家討伐を企てたが敗れ敗死。

 

平清盛は、源氏への対抗策として、福原(神戸)遷都を行う。

朗読1

「また、治承四年水無月のころ、にはかに都遷りき。いと思ひの外なりしこと。おほかた、この京のはじめを聞けることは、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。

ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、やすからず憂へあへる、げに理にも過ぎたり。」

また、治承四年六月の頃、急に遷都があった。大変意外なことであった。そもそも、この京都の始まりを聞いたことでは、嵯峨天皇の御代に、都と定まった時より以後、もはや四百余年を経ている。特別な理由がなくて、軽々しく都が改められるはずはないので、今回の遷都を落ち着かず心配したのは、全く道理を越えている。

 

・この記述の四百余年は、昔から問題となって議論されたところ。治承四年(福原遷都)→1180年

 我々は「泣くよ(794)鶯平安京」と記憶するので、1180-794=386となる。

 また当時平安京設立は、嵯峨天皇であると認識されていた。というのは桓武天皇の皇子・平城天皇

 が上皇となって旧都奈良に遷都し、嵯峨天皇が平安京に戻したから。

鴨長明が方丈記を書いたのは1212年。よって1212-794=408年。→四百余歳となる。

・薬子の変 平城天皇に寵愛された女性が兄藤原中成と計って平城遷都と皇位奪還を目指した

 事件。失敗する。

・桓武天皇の言として「帝都(平安京)は永久にかえてはならない」とあるのに、清盛は遷都を強行。

 周囲は反発。

 

朗読2
「されど、とかく言うかひなくて、御門よりはじめ奉りて、大臣、公卿みなことごとくうつろひ給いぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとり、故郷に残り居らむ。官、位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどにほどの人は、一日なりとも、とくうつろはむと励む。時を失ひ、世に余されて、期する所なき者は、憂へながらとまり居り。軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心みな改まりて、ただ馬、鞍をのみ重くす。牛、車を用する人なし。西南海の所領を願ひて、東北の荘園を好まず。」
 

しかし、とやかく言っても仕方ないので、天皇をはじめ、大臣・公卿も皆ことごとく、お移りになった。朝廷に仕えるほどの人は、誰も、旧都に残ってはいない。官職や位階に望みをかけ、主君の恩恵を頼みにするほどの人は、一日でも早く移ろうと努め、時流に乗り遅れ、世間から取り残され、望みのないものは、嘆きながら旧都に残っていた。軒を競っていた人の住居は、日数を経るにつれて荒れていく。家は壊されて、(材料を新都て゜使うため)、淀川に浮かび、宅地は、見ている間に畑になっていく。人々の心は全く変わってしまい、ただ、馬や鞍ばかりを重んじて、牛や牛車を使う人はいない。西南海の所領を欲しがり、東北の荘園を好まない。

・福原遷都の時 後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇。

 

「清盛が福原遷都で目指したもの」

〇迫りくる源氏からの防衛

〇清盛はこの地にすでに別邸を立て、気に入っていた

〇福原を根拠地として日宋貿易を、志向していた。

〇平家は西国が拠点

 

「コメント」

この頃から武士が政治を主導する時代となった。それが確立するのが鎌倉時代。

それにしても、鴨長明は時代の大変動を目のあたりにしている。