190608⑪「方丈の庵」其一

前半までは、長明の半生の話しであった。

 ・30歳で不本意ながら、祖母の家を出る。

 ・自分の家を作る。

 ・50歳で出家する。5年間、大原で。

 ・55歳で日野に転居し、方丈の庵を作る。

「朗読1

ここに、六十の露消えがたらに及びて、さらに末葉の宿りを結べることあり。いはば旅人の一夜の宿りをつくり、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これを中ごろのすみかと並ぶれば、また百分が一に及ばず。 

とかくいふほどに、齢は歳々に高く、すみかは折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。し、心にかなはることあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め作ること、いくばくのわづらひかある。積むところ、わずかに二両。車の力を報ふるほかは、さらに他の用途いらず。

それで六十歳の露のようにはかない命が消えかかる頃に及んで、改めて、枝先の葉のような、終の棲家を作ることとなった。たとえて言えば、旅人が、一夜の宿を作り、老いた蚕が、繭を作るようなものだ。これを中年の頃の家に比べると、また、百分の一にも及ばない。あれこれ言っているうちに、年を取っていき、住居は引っ越すごとに狭くなる。

その家の様子は、世間一般の家に似ていない。広さは僅かに一丈四方で、高さは七尺もない。場所を決めているわけでもないので、土地を所有して作ってはいない。土台を組み、簡単な屋根を葺いて、材木の継ぎ目に、掛け金を掛けている。

もし、気に入らないことがあれば、簡単に引っ越すためである。その改築することには、どれほどの面倒があろうか。

建築資材は、わずか車二台分である。車の費用だけで、ほかの費用は掛からない。

・当時の年齢感覚  今の年齢の80%と考えられる。60才→48才 

・方丈  約3m四方  一丈→3m     丈六の仏→一丈六尺、4,8m

「朗読2

今、日野山の奥に跡を隠してのち、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の縁側を作り、その西に閼伽棚を作り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法華経を置けり。

東の際に蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊り棚を構へて、黒き皮籠三台置けり。すなはち、和歌、管弦、往生要集ごとき抄物を入れたり。かたわらに、琴、琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。仮の庵のありよう、かくのごとし。

今、日野山の奥に痕跡を隠して住むようになってから、東に三社の庇をさしかけて、柴を折って燃やす落ち着く場所とする。南は、竹の縁側を作り、その西に閼伽棚を作り、北に衝立を隔てて、阿弥陀仏の絵像を安置し、そばに普賢菩薩の絵像を掛け、前に法華経を置いている。東に、蕨の穂がほおけたものを敷いて、寝床とする。西南に竹の吊り棚を作って、黒い皮の籠を三つ置いている。和歌や管弦の本、往生要集の抜き書きを入れている。

その傍に、琴と琵琶をそれぞれ一つ立っている。折り琴、継ぎ琵琶がこれである。とりあえずの、庵の様子は、こんなものである。 

・歌人 鴨長明  後鳥羽院に歌の才を認められ、和歌所寄人となる腕前であった。

・琵琶の名手として、後鳥羽院から琵琶を下賜されていた。

・往生要集 平安時代の僧 恵心僧都源信の仏教書。地獄・極楽の様子が描かれ、大きな影響を

 与えた。源信は、良源の弟子。当時の知識人必読の書であった。

・日本人の小さいものへの志向→小さいことは良いことだ。

 日本人の「縮み志向」といわれ、日本人の特質の一つといわれる。その一つの例が「方丈の庵」

 であろう。

 

「コメント」 

方丈記を一年間やるので、どういう工夫があるかと思っていた。結局、方丈記の丁寧な解説と、周辺事情(平安末期から鎌倉)の解説となるんだ。こちらものんびりと聞こう。