190921㉕「長明の半生 其五『一族との軋轢』」

この講座の第一部では、「方丈記」を見てきた。第二部では、長明の著作や関係の記録から、彼の人生を話している。 

今日は長明の歌論書「無名抄」の第11話を中心に一族との確執を中心にする。

「河合神社禰宜就任の頓挫」

長明は後鳥羽院の歌所に召し出され大変喜んで、精勤していた。院は何か褒美をと思われ、下鴨神社摂社河合神社の禰宜に充てようとされた。しかし当時の下鴨神社禰宜の大反対にあい頓挫する。そこで院は、別の神社を官社として格上げして考えせられたが、長明は断り失踪してしまう。何故断って失踪したのか、色々といわれているが、そこには鴨一族との軋轢があった。

(無名抄11) 以下の歌を巡る様々な人の言動や、歌の行方や長明の感想などが書かれている。

源光行主宰の歌会で、長明の歌「石川やせみの小川の清ければ月も流れを尋ねてぞすむ」

→石川瀬見の小川の水は清いので、月も流れを訪ねて来て川面に宿っている。

しかし歌の判者は、瀬見の小川なんて知らないと言って負けとしたが、この日の判定はおかしいことが多いとし、判定はやり直しとなる。後日判者と話し、石川の瀬見の小川というのは賀茂川の異名であると説明し、理解を得た。

所が叔父の下鴨神社禰宜の鴨佑兼が、賀茂の名前は軽々しく使うものではないとクレーム。事ごとに長明に難癖をつけてくる次第。しかし、人々は次第にこの石川の瀬見の小川を歌に読み込むようになり、後鳥羽院勅撰の「新古今和歌集」には、長明の歌が10首入り、この歌も含まれていた。

 

長明はどこか、留飲も下げたが嫌気が差したのだろうか。

河宇神社禰宜就任頓挫、歌を巡って不和による一族などからの非難なども、失踪の原因であったのだろう。

 

「金槐和歌集」(源 実朝)に、瀬見の小川を読み込んだ次の歌がある。

「ちはやぶるみたらし川の底清みのどかに月の影は澄みたり」

「君が代も我が世も尽きじ石川やせみの小川の絶えじと思えば」

長明は、鎌倉下向で実朝に面会して、石川の瀬見の小川について、話したことであろう。

 

下賀茂神社の禰宜になった鴨佑兼の長男が神社内で暗殺される。これも鴨一族の内紛であろうか。

下鴨神社は財力もあり有力であったので争いが絶えなかったという。

長明の失踪は其の性格もあろうが、このような一族の状況も影響していたのではないか。

 

「コメント」

後鳥羽院の意向に反する鴨一族の言動、そして院の意向に無視して失踪してしまう長明。

鎌倉に行って実朝にも会っていたとは。中々理解できない出来事ではある。