221112 ㉜「山上憶良の嘉摩(かま)三部作 巻5

前回

前回は太宰帥となって筑紫に下った大伴旅人が、赴任早々に妻・大伴郎女を失い、深く悲しみに沈んでそれを歌に歌った。そして筑前守として矢張り大宰府にいた山上憶良が、旅人に同情して漢文・漢詩・そして長歌、五首に及ぶ反歌という大規模な哀悼の作品を提供して、旅人に奉ったことを話した。

旅人

旅人は既に64歳の高齢であったが、憶良は更に年長で69才。一方二人の経歴は大きく違う。旅人は古来からの名門大伴氏の氏の上であった大納言 安麻呂の長男。続日本紀初登場の和銅3年元日 46歳で正五位上であった。高官の子は高い地位からスタ-ト出来るのである。その後九州南部の隼人の征伐などで功をあげ、養老5年 70157歳で従三位となっている。

憶良

対して大宝元年70141歳で遣唐使の書記官に任命された時は無位であった。それまでどのような事をしていたかは分からない。遣唐使に抜擢されたのは、中国語や文章に詳しかったからに違いない。どこでそれを身につけたのか、帰化人の生まれだったとか僧侶だったとかあるが、確実なものはない。ともあれ、唐に渡ったのが出世の糸口で、帰国後の和銅7年 正六位下から従五位下にあげられた。従五位下は中級官人の一番下である。それでも破格の出世であった。憶良は最後までそれ以上になる事はなかった。その後、伯耆(今の鳥取県)の国守や皇太子時代の聖武天皇の家庭教師を勤め、神亀5728年に筑前守として赴任していた。憶良には若い時の作品、例えば既に読んだ有間皇子を歌った歌、巻2-145や唐で日本を思って作ったという巻1-63

いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ 等があるが、主要な作品は筑前守時代から後の老境に入っての作品である。やはり旅人との出会いが、決定的な影響を与えている。

  憶良の嘉麻三部作

神亀5721日の日付で、漢文、漢詩、日本挽歌を旅人に献上した憶良であるが、全く同じ日付で大規模な作品を残している。それは漢文の序、長歌に反歌一首という構成の作品三つからなり、その最後に日付と嘉麻郡にて選定し筑前守山上憶良と左注が付けられている。嘉麻郡は今の福岡県飯塚市、嘉麻市の辺りで、大宰府からすこし東北に行った地域である。そこに出張していた時に選定したというので、これ等を嘉麻三部作と呼ぶ。漢文の序と、長反歌という組み合わせは、これが初めてであるが、漢文、長反歌という日本挽歌作品群との共通性は明らかである。旅人に作品を献上したことを契機に、一気に製作意欲が高まったのであろう。まず第一作は巻5800801、題は惑える情を変えせしめる歌という。血迷った心を元に戻させる歌という意味である。

 

5-800 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す

序文、題詞 或る人父母を敬う事を知りて、妻子を顧みず、自ら倍俗先生と称し~

この序文は一人の人物を登場させ、或る人が父母を敬う事を知りながら、世話をすることを忘れ、まして妻や子を顧みないことと言えば、脱いだ履物より軽んじる有様である。自分では倍俗先生と名乗っている。倍とはすごく反するという意味があり、俗世界を背き捨てる人という意味がある。自分がそういう号を付けるのは、何とも偉らそうである。しかし憶良はその実質を問う。気持ちだけは空に掛かる雲の上に上がっているようだが、体は相変わらず穢れたこの下界にある。まだ修行の結果、道を覚って聖人になった印がない。それでは山や沢に亡命した人に敵わない。亡命は今でも使う言葉であるが、命は名前・戸籍の事で、亡命とは戸籍を離脱して、逃亡することである。

修行の真似事をして倍俗先生などと名乗っても、単なる家出人である。それならば三綱五教を教え諭し、その迷いを反省させねばならない。三綱五教とは、父とか子とか兄とか立場による振る舞い方で、儒教の徳目である。それを教え諭すのは国の守である憶良の仕事でもあった。律令の一編 戸令(こりょう)に国の守の巡行について記されている。それによると国守は年に一度国を巡って、民の暮らしを視察し、その地の歴史を知り政治が上手く言っているかを知り、徳目を広め農業がすすめ、それに行いの良いものが居れば官に登用し、法を破るものがいれば捕らえて糺せと規定している。条文には「篤く五教をさとし」とあって、儒教の徳目を教えるのが国守の役目であるし、逃亡農民を仕事に戻らせるのも任務であった。憶良は嘉麻郡にいたので、丁度視察に出ていたのである。しかしただの任務ならば、捕まえて言い聞かせればよいので、歌を送って反省させるというのは、必ずそれ以上の意味を持っていたと思わねばならない。

 

原文 

父母乎 美礼婆多布斗斯 妻子見礼婆 米具斯宇都志 余能奈迦波 加久叙許等和理 母智勝利乃 可可良波 志母乃 由久幣斯良祢婆 宇既具都遠 奴伎都流其等久 布美奴伎堤 由久智比等波 伊波紀欲利 奈利堤志比等迦 奈何名能良佐祢 阿米幣由迦婆 奈阿麻麻尓麻尓 都智奈良婆 大王伊摩周 許能堤羅周 日月能斯多波 雨麻久毛能 牟迦夫周伎波美 多尓具久能 佐和多流伎波美 企許斯遠周 久尓能麻保良叙 可尓迦久尓 保志伎麻尓麻尓

斯可尓波阿羅慈迦

訓読

父母を 見れば貴し 妻子(みこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世間(よのなか)は かくぞことわり 

もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)の 脱き棄(すて)るごとく 踏み脱きて 行くぢ人は 岩木より なり出し人か 汝()が名告()らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲(あめくも)の 向伏(むかぶ)す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食()す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか

 

800 長歌 略

この歌と先の序文とは深い関わりがある。

「父母を見ると貴いと思う。妻や子を見るといとしく思う。この世の中はこれが道理なのだ。鳥もちにくっつくように、関わり合っていたいものよ。後は何処に行くのか分からないのだから。」

最初は序文同様、父母は貴いと思って当たり前なのだ。妻子は可愛くて当たり前だと、世間の道理をもって迫っている。しかしもち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば とはどういうことか。もち鳥 とは、もちで鳥をくっつけて捕る 鳥もちの事である。これは仏典の譬喩にも用いられており、猿にもちを与えると、手にくっついて取れないので口で取ろうとし、口にくっついてしまうと、今度は足で取ろうとして、足もくっついて結局全身がんじがらめになってしまう。それは人間の欲望を例えたものである。一方ゆくへ知らねば は、人間がこの世を去ったならば、何処の世界に転生出来るかは分からないと述べている。偶々、この世界に親と子に生れ、出会って夫婦になったのも必ず誰もがこの世を去る。そうしたら千の3乗ほどもある世界のどこに生れるか。無限の時間の中で、又出会えるか。これを考えると、どれほど今一緒にいるのが奇跡的で貴重な事かと説くのである。しかし仏教的に言えば、それは所詮凡夫の抱く欲望に過ぎない。日本挽歌の前に置かれた詩に、愛河の波浪は既に消え とあったように、親子夫婦の愛も煩悩の一つで、それを離れなければ解脱は出来ないのである。だから歌い手は歌いながら矛盾していく。もち鳥の かからはしもよ は、「鳥もちの様にくっついていたいものだよ」 と解されるのだが、鳥もちの様にくっつきたくてくっつく人はいない。関わっていたいと言いながら、その関係の面倒くささも同時に表現されている。このかからはしもよ ゆくへ知らねば の部分は、歌の途中でありながら七七のリズムで、日本挽歌の長歌と同じく破調で段落が出来ている。

この世の道理に拘る歌い手はいささか感情的である。穿沓(うけぐつ) は穴の開いた靴の事である。「それを脱ぎ棄てるように家族を捨てていくという人は、岩や木から成り出でたものなのか。名前を言いなさい。」という。岩木は日本挽歌にも出てきた人語を解さないものの代表である。親愛を感じるべき家族を捨てていく貴方には感情が無いのかと訴え、名前を言いなさいと言うのは、親から貰った名前があるだろうという訳である。しか相手は倍俗先生と自ら名乗っている。

俗に背く、この世の道理を拒否するものだから、家族への愛では説得出来ないのであろう。そこで一転、現実を見ろと言うのである。本当に天に行くのなら、あなたの勝手だと相手の立場を認めつつ、「しかし現にあなたは地上にいる、そこには天皇がいらっしゃる。日や月が照らすこの地上は、天の雲が流れて行きつく先,ヒキガエルの這いまわる地の果てまで、

天皇のお治めになる素晴らしい土地だ。」という。天雲(あめくも)の 向伏(むかぶ)す極み たにぐくの さ渡る極み は、祝詞の一節を借りてきた表現である。地上世界だって隅々まで祝福された土地で捨てたものではない と説得するのである。しかし最後はかにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか →あれこれと好き勝手にするなんて。そうではないか。 と何か口ごもる様に終わる。

 

5-801 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す 反歌

原文 比佐迦多能 阿麻遅波等保斯 奈保奈保尓 伊幣尓可弊利堤 奈利乎斯麻佐尓

訓読 ひさかたの 天道(あまじ)は遠し なほなほに 家に帰りて 業(なり)をしまさに

 

801

ひさかたの は、天に掛かる枕詞。

「天に行く道は遠い。おとなしく家に帰って仕事をしなさいな。」結局この世を脱するのは難しい。この世にいる限りは、この世の道理に従うしかないであろう。そうならば家族の所に戻って仕事をなさいよ という説得になる。当時仏教は国家護持の為の宗教で、僧尼は課税を免除され、特権的に保護されていた。勿論国家管理の下にあったのだが、勝手に得度して僧侶になる私度僧は禁じてあっても、後を絶たなかった。国守である憶良はそれを取り締まる側で、この歌でも三綱五教をもって説得に当たるのであるが、しかし自らの説得力の無さに、途中で気付いて口籠ってしまう。

此の作品は、むしろそうした過程を述べたものだと思う。家族の絆等というものは、所詮この世の道理であって、別世界に行こうとする者にとっては通じない。それは現世の倫理である儒教が、千の三乗も別の世界があるという仏教の前に、限界を露呈したという宗教問題もある。そして戸籍から離脱して私度僧になる者が続出していたというのは、社会問題でもある。全国的に戸籍を作る様になったのは天智朝からで、流民が問題になるのはその副産物である。当時労役に耐えかねて逃亡する農民の多いこと、そうした農民を集めて自分の農地の開墾に使用する有力者がいるという事などが、度々続日本紀などにも記されている。この照らす 日月(ひつき)の下は 国のまほらぞ と言いつつ、現世にも生きていけない人が沢山いる事は、巡行する憶良にも分かっていた筈である。倍俗先生のような人が出る事も致し方ない。
後の貧窮問答歌に繋がるモチ-フはがこの歌に既にあるのである。しかし憶良は決して、倍俗先生の側に立つのではない。家族とはこの世でしか一緒に居られないからこそ、鳥もちの様にくっついていたいという、そうした感情の論理による人であった。

 

次の二作、子等を思う歌。802803ではそこが追及されていく。まず序文である。

5-802 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す

序文 訓読 原文は長いので省略

お釈迦様は金の口で、「人々を我が子羅睺羅(らごら)と同様、皆平等に思う」とお説きになったが、また、「我が子への愛に勝るものはない」ともお説きになった。至高の聖人でさえ子を愛する心がある。まして世の民草で子を愛さないものがいるだろうか。

 

羅睺羅は釈迦が在俗時代に作った子で、後に十大弟子の一人となった。衆生を等しく思う事は、羅睺羅の如し は釈迦の言葉として仏典に出て来る。しかし以下の構文は詭弁であると万葉学者の井村哲夫は指摘している。

愛は子に過ぎたるということなし は、釈尊が直に述べた言葉としては例がなかなか見つからない。

今後見つかっても必ず、子に対する愛ほど激しい煩悩はないから、それを離れよという言葉であるはずである。まして釈尊も子に対する愛を離れられなかったなどと言うのは、仏教的なデタラメであると。

釈尊が衆生を等しく思うのは、全ての生命を輪廻から救いたいという志である。それは我が子が可愛いという凡夫の欲愛とは全く異なるものである。しかし憶良は詭弁であり暴言であるのを承知で述べているのだと井村哲夫は言う。その通りだと私も思う。世間蒼生(せけんのそうせい) 世間の青人草とは、人民、普通の人の事で、憶良はその立場に立って物を言っているので、敢えて誤ったことを強弁しているのだと言っても良い。私達は子への愛を離れられない。しかし

お釈迦様も本当は子を愛する気持ちをお持ちではありませんか。だから愛は子に過ぎたる話という愛を述べるのに、わざわざ羅睺羅のことを持ち出されるのではないかと問うているのであろう。

 

次に長歌を読む。

5-802 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す

原文 

宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯堤斯農波田 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 

麻奈迦比尓 母等奈可可利堤 夜周伊斯奈佐農

訓読

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに 

もとなかかりて やすいしなさぬ

 

5-803 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す 反歌

              題詞 子を思う歌一首 

原文 銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古似斯迦米夜母

訓読 (しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

 

802 長歌 略

短い長歌である。「瓜を食べると子供達の事が思われる。栗を食べると益々思い浮かぶ」と切り出す。何故瓜を食べると子供の事が思われるのかははっきりしないが、枕草子に可愛いものの最初に 瓜に書きたる稚児の顔 が出て来る。瓜が子供の顔に似ているからかも知れない。栗もはっきりしないが、イガの中に三つ程、栗の実が入っているのが、子供達を連想させるのではないか。中 の枕詞に 三つ栗の がある。なお子供の 供 は複数を表す接尾語で子供達を指している。瓜も栗も仄かに甘みのある食材なので、子供の好物という考え方も出来る。しかし思ほゆ 偲はゆ  は、自然に思い込んでしまうという事で、子供達を見ながら言う言葉ではない。今 子供達は目の前にはいない。だから心配でならない。一体どこから来たものか、目の前にやたら引っかかって、安眠させてくれない。まなかひ は、両目の視線が交差する所 という意味で、目先・目の前と訳される。もとな は、動詞の前に来るときは 訳もなく・やたらに と言った意味である。なさぬ の なす は、寝かせるという意味の他動詞で、子供達の顔が目に浮かんで寝かせてくれない と言っている。いづくより 来りしものぞ は、「子供というものは、一体どこから来たものか」という事で、それは誰しもが抱く疑問であろう。人間は何処からきて、何処へ去っていくのか分からない。どこから現れたのかも分からない存在に、何故こうも心を掴まれてしまうのか。愛は子に過ぎたるものはなし は真実で、子煩悩というがそれを離れなければ、この世の執着はやまない。

仏教的には親子と言えども、人間によって出来た仮の関係に過ぎないことを、悟らなければならないのである。

「西行物語」で、西行は縋り付く娘を蹴落として出家したと語られるが、そうでもしなければ俗世は離れられない。

序は子への執着は、迷いに他ならないことを知りつつも、お釈迦様だって子への愛にとらわれていたのだから、自分達凡夫が子を愛してしまうのは当然だと、居直りを述べていた。長歌も、子供達から心が離れないことによる迷いや葛藤を歌っていると言ってよいであろう。

 

それでは反歌はどうであろうか。

803 反歌 (しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

子への愛を歌った作品として非常に有名な作品である。但しこの歌には難しい問題がある。何せむに は、下に推量や意思の表現が来て 何せむに~せむ という形で、反語になるのが普通である。どうしてこれこれすることがあろうか どうして~しようか といった意味である。所がこの歌の結びで 子にしかめやも はこれ自体が、反語で 子に及ぼうか 子に勝ることがあろうか と言った意味である。~せむ の下が、又~めやも という反語になる事は通常ない。だからこの歌は、二つの反語表現が重なった歌なのである。それでどこで切れるかが問題になる。第四句のまされる宝 は、

何せむに まされる宝 と続いて「銀も玉もどうして優れた宝と言えようか」となり、最後に子にしかめやも→「子に及ぼうか」といっているのか、それとも何せむに で切れ、その後に 大事だろう という言葉が省略されていると見て、「銀も金も玉もどうして大事であろうか」となり、改めて「勝った宝である子に及ぼうか」と解する。これは判断が難しい。

まされる宝 勝宝という言葉を訓読したもので、後に大仏に塗る金が陸奥で発見された時に、天平勝宝という元号も付けられた。従って勝れる宝は、金銀・珠玉の側の言葉だと思うので、私が先に述べた「銀も金も珠玉もどうして優れた宝と言えようかと解する方を選んでおく。

「世の中の人々は、金銀珠玉を勝宝と言って有難がるが、なんでそんなことがあろうか。どんな宝も子に及ぼうか」

序に、仏の口を金口(きんく)と言ったように、金銀珠玉は仏法の譬喩にもなる貴いものである。一方、子供は煩悩の種であり、瓜や栗といった卑近な食べ物から連想されるにすぎない。それがどんな宝物よりも大事に思われるというのは、やはり迷いに他ならないいのであろう。

 

この歌はただ単に子供が可愛いという事を歌った天真爛漫な歌ではない。やはり子への愛が煩悩である事を知りつつ、しかし凡夫の情はそうでしかあり得ないという居直りを歌っているのだろう。憶良は子供への思いを、この後も歌い続けた。旅先で、親に会えないまま亡くなる子の心情を、その子に代わって歌ったこともあるし、幼い男の子を亡くした親の悲しみを歌った作品もある。74歳で亡くなる直前に製作したと思われる歌も、子供を残して死ぬことの痛切な感情を歌っている。人が生きる意義と子供とは、憶良の中では分かち難く結びついていた。憶良にとって子供の問題が大きかったのは、その年齢の為も有ったろう。子供との避けられない別れも近いのである。

 

三部作最後の作品は、世の中の留まり難きを悲しぶる歌 804805 である。留まるという字は住宅の住という字なので、住み難いと読む説もあるが、内容的に人生の短さを歌う歌なので、留まり難きと読んだ方がよい。

まず序文。

5-804 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す

「この世は移ろいやすいことを悲しむ歌

人々に襲い掛かって払い除け難いものは八大の辛苦であり,全うすることが難しくすぐに終わってしまうものは、百年の人生を楽しむことだ。これは古人の嘆きだが、私も又同じ様に嘆いている。そこで一章の歌を作り、白髪の混じる老いの嘆きを払い除けよう。その歌に言う。」

 

八大辛苦とは、人間の根源にある苦しみである。八苦は仏教の教義の根本にあるもので、人間の持っている逃れ難い苦しみの事である。生・老・病・死の四苦に、次を加えて八苦という。

愛別離苦 愛するものと生別、死別する苦しみ

怨憎会苦 怨み憎んでいる者と会う苦しみ

求不得苦 求めるものが手に入らない苦しみ

五陰盛苦 人間の肉体や精神が暴走してしまう苦しみ

 

人生を歩んでいると様々な苦しみが襲ってくる。人生には楽しみもあるが、楽しい時はすぐに過ぎてしまう。100年の寿命もあっという間である。古人もそれを嘆いてきた。その心境に自分も立ち至ったと、序は述べる。そこで一編の歌を作って二毛の嘆きを払おうと思う。二毛とは黒髪と白髪に二色の毛という意味で、要するに老いの嘆きである。

 

次に長歌である。原文の万葉仮名は長いので省略。

世間(よのなか)の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫()め寄り来る 娘子(おとめ)らが 娘子さびすと 唐玉を 手本(たもと)に巻かし 白妙の 袖振り交わし 紅の 赤裳裾引き よち子らと 手携(たずさ)はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ (みな)の腸(わた) か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の 丹()のほなす 面(おもて)の上に いづくゆか 皺が来のて 常なりし 笑()まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 安駒に 倭文鞍(しつくら)うち置き 這ひ乗りて 遊び歩し 世間や 常にありける 娘子(むすめ)らが さ寝す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手の 玉手さしさし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖(たつかづえ 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎(にく)まえ 老()よし男()は かくのもならし たまきはる 命惜しけど 為()むすべもなし

 

5-805 作者不詳 左注 神亀五年嘉麻郡にて筑前守山上憶良選定す  反歌

原文 等伎波奈須 迦久斯母何母等 意母閇騰母 余能許等礼婆 等登尾可祢都母

訓読 常盤なす かくしもがもと 思へども 世の事なれば 留みかねつも

 

804 長歌 略

最初は総括的な序の主旨を繰り返す。

この世のどう仕様もないことと言えば、年月は川が流れるように去ること。そして連続して襲ってくる災いは何百と襲ってくる。次に人々が瞬く間に老いていく事を具体的に述べる。娘たちがいかにも娘らしく、舶来の玉を袂に巻いて、同時代の娘同士、手を取り合って遊んだ若い盛りを留められず過ごしてしまうと、真っ黒だった髪もいつの間にか霜が降ったのだろう。血色の良かった顔にどこから皺がやって来たのか。この様に女性の老いを容赦なく描いている。

勿論老いは女性だけではない。立派な男が、若い男らしく剣太刀を腰に佩き、狩猟用の弓を手に握って赤駒に鞍を置き、乗って遊び歩いたこの世がずっと続いたであろうか。語り手は男なので、男の老いはこれから詳しく述べていく。

娘が寝ている部屋の板戸を押し開き、手探りで寄っていって、手に手を取って共寝をした夜など幾らもない内に、親の目を盗んだ恋の冒険もその時だけで、いつの間にか老人である。杖を手に握って腰に当て、あっちに行けば人に嫌われ、こっちに行けば人に憎まれ、老いた男なんてそういう風だと決まったものだ。老人が自分の流儀に拘って、若い人達に説教しては嫌がられるのは、今も昔も同じである。体が不自由なのだから、家に引っ込んでいろと思われてるのも知らずに、暇に任せて出歩いては迷惑を掛ける、皆同じだ。しかしたまきはる 命惜しけど 為()むすべもなし → そんなになっても命が大事なのは変わらないのだが と言ってもどう仕様もない。

 

805   常盤なす かくしもがもと 思へども 世の事なれば 留みかねつも 反歌

「堅固な岩の様にずっとこうしていたいと思っていたが、世の道理なので、結局留められなかったことよ」

老醜を晒してなお命に執着する。凡夫の極みである。しかし歌い手は老人自身であるとともに、その老醜をさらす自分を冷静に見ている。自分の老いもこの世の道理に従っているので仕方がないという達観もある。そうした複眼的な思考が存在するのが、憶良の歌の魅力を作っている。憶良は実際にその様な深みを持つ人物だったらしく、あちこちで嫌がられるどころか、多くの若者が私淑していた様である。

嘉摩(かま)三部作は、地人に対する説教に始まる。しかしそれは自分の矛盾に行き当るものであった。この世、この生だけの問題ならば儒教倫理に従っていれば良い、しかこの世以外に千の三乗もの世界が、この世にも自分の短い人生の前に無限の過去があり、無限の未来がある といった仏教的な世界観に立ったら、それだけでは収まらない。その中で自分は生きる意味はあるか、意味は無いかもしれないが、この世にはいつまでも生きていたいし、この世で出会った家族とはいつまでも一緒にいたい。生者必滅の理と人間の情とは、ぶつかり合ってやまないのである。答えのない問題だからこそ文章にし、歌にする意味もあるのであろう。

老齢になって任地で妻を失った大伴旅人に献上するために、その身になって追悼文や詩や日本挽歌を作るという体験が、憶良に老いた自らの生を問い直す機会を与えたのであろう。

 

「コメント」

 

実に考えさせられた。昔から人間なんて、特に老人なんて全く同じ。色々と豊かになり施策もあるが、基本的な所の老人問題は同じ。一生懸命、講座記録を作って暮らそう。人にやさしく。